自分史③ 夢見る青年は夢を見る。
こういうの一気に書かないと前までのテンションがわからなくて困りますね。
たばこを止めました。
咳は止まらず、首を痛めて整体通いしています。
全てのネガティブをたばこを止めたせいにして吸う理由を探しています。
フリーター時代 後編 キッカケをつかむ
国際支援の世界に入るきっかけとなった出来事は二つある。
よくよく考えれば、前回のnoteのスタツアに参加している時点でやる気満々ですね。おそらくその前の話です。
国際支援キッカケ①
国際支援の世界に初めて触れたのは大学の授業だった。
うん、大学には入学してないけど、バイトが休みの日に大学のたまり場で暇を持た余してたら 友達に「暇なら一緒に受けるか?」と言われ、そんなもんなのかと思い、初めて大学の授業に忍び込んだ。
忘れもしない、「21世紀アフリカ」とかいう授業。
何がどうなってバレて追い出されるかわからないので一番後ろの端っこで授業を受けた。
アフリカでの国際支援の現場の映像を交えた授業だった。
結果、一人で号泣。
怪しさこの上なかっただろう。
別に泣かせる授業ではなかったかもしれない。
でも、あまりにリアルな現実にショックを受けたんだと思う。
「この世にこんな世界があったのか」と感じた。
その後ショックを引きずりながらモヤモヤしたまま過ごしていた。
ちょうどバンドも中途半端で悩んでいた時期と重なっていた。
国際支援キッカケ②
最初のキッカケから数か月もたっていなかったと思う。
ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ。
911同時多発テロ。
バンドのツレがちょうどアメリカに行っていたのでよく覚えている。
そんなテロの様子を繰り返すテレビのニュースを見ながら
「なんでこんなことなんねん。」「最悪やなー」的なことを言っていた。
ただ、その瞬間ふと思った。
テレビの前で何を言っても世界は変わらんよな
んで同時にもう一つ思った。
あれ?俺の出番ってこと?・・・そうか、世界が俺の行動を待ってるのか!
思わずうるせー!って突っ込んでしまいそうだが本気だった。
この人生最大の勘違いが私を世界へいざなうことになる。
「国際支援の現場に立つ」という夢
適当にバンドなんかやっていたが決して夢ではなかった。
歌うことが好きで楽しい仲間がいてずっと「そんな感じがなんかいい」的なノリだった。
でも、どうやら心からやりたいこと、夢ができた。
その瞬間から人生の選択があれば「国際支援の現場」に近い方を選んだ。
ただ調べれば調べるほど なんか遠いな、、、と感じた。
まだギリギリインターネットが市民権を得ていないから、情報が少ない。
ただどうやら大学出たり、社会経験が3年以上必要だったり。
もはや英語は武器にならない、、、(話せないけど)
ピースボートは別に支援じゃないし、青年海外協力隊も考えたけど自分に得意分野がないので、青少年活動とか村落開発とかよくわからない枠しかなく倍率も高い。
よし、とりあえず必須とされる社会経験だ。
ガソリンスタンドでは関東で3位の売り上げた私だが所詮バイト。。。
実家に帰って社会経験を積みながら金を貯めて留学するべし。
ということで滋賀の実家に帰った。
夢を叶えるためのハードル① 家族
実家は空調設備をやっていて仕事はあったが違うことをやりたかった。
世界平和の仕事を目指すのだ、どうせやるなら人の為に!ということで介護を選んだ。
ただ、資格はなにもないので数か月バイトしながらホームヘルパー2級を通信でサラッと取得し、就活した。
どこに行っても「経験がないとねー」「資格取ったばっかりなの?w」とか言われて 3つ目くらいでムカついて面接で絶叫した。
「どこで経験積むんじゃボケー!」、、、
ともかく言っても仕方ないので就活継続。
すごくうれしかったから覚えてるけど確か7件目くらいで
「じゃあまずどんな振る舞いができるか明日現場に一日入ってみよう」と言ってもらって実技?で2秒で採用してもらった。
正直どんな仕事でも大体向いてると思うけど、介護は特に向いてると思う。
下の世話にも特に抵抗はなかった。
だが介護は確か2年弱で辞めた。
夢があったからではなく、父親に自営業の設備会社が厳しいから手伝ってほしいと言われたからだ。
親父の会社の仕事は小学校から現場に出ている。
アルバイトだったから何でもできるわけじゃないが、流れや道具の使い方は分かるから 即戦力には間違いなかった。
空調設備と言ってもクーラー屋、仕事の基本は配管業。
ガス溶接で銅管を繋いだり、排水塩ビ管を繋ぎ、電線を這わす。嫌いじゃない。
ただ人が足りなかった。
若いから体力はあったが、5時に出勤で帰宅が23時で休みが3か月以上なかったりすればさすがに気持ちが落ちていく。
大きな現場を2人で回して、少しづつ進んでいく。疲れはしたが、別に日常だったのでそれ自体は辛くなかった。
ただ、夢へ近づいているという感覚が微塵もなかったのが辛かった。
「何のために生きているのか分からない。」
そんな状況に陥りやすい性格だった。
とにかくこのままだと人生が終わってしまう。
そんな感覚、、限界だった。
現場が落ち着いたところで父親に直談判した。
「俺は国際支援の現場に行きたい。だから今貯めてるお金で留学するからもう辞めたい。」
そんなことを伝えた。
今ならわかる。父親も母親も本気で心配してくれていた。
息子が選ぼうとしている人生がどんな道なのか、
支援の経験はなくとも社会で生きる大人なら大体わかったはずだ。
親父「ボランティアの世界なんかで飯食われんぞ!」
私「・・・じゃあ金なんかいらん!!」
親父「お前に子供ができたとき、金がないってことがどれだけみじめなことか、情けないことかわかってんのか!」
私「じゃあ結婚なんかせんわ!」
夜逃げして死ぬほど苦労して、人間のカスに頭下げながら歯を食いしばりながら 3人兄弟のうち二人を私大に入れて卒業させた父親である。
一番最後にボンクラ三男が何を言い出すんだと思っただろう。
ただ高校卒業をしてからフリーターながら自力で生きてきて、一番自立していたという自負もあったのでやりたいことをやりたかった。
わかった! という言葉があったかは覚えていない。
ただその時点で留学の準備を始め、自分一人で留学先の語学学校に申し込み、車で東京の大使館に行き、ビザを取った。
行き先はロンドン。
先に夢を追ってバンドのツレが住んでいた。
東京でビザを取った帰りの高速、スピード違反で捕まった。
滋賀から東京に何の用事?と不愛想に聞く交通機動隊にイギリスに留学するためのビザを取ってきた旨を伝えると
「夢があるんだね、うちの息子に見習ってほしいよ、、」と減点をオマケしてくれたのがイヤに誇らしく、嬉しかった。
つづく
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3回くらいで終われるはずもないことに今更気付きました。
私の人生にはドラマがあり過ぎる。いや、誰だってドラマはあるよね。
これでもかなり端折ってるけど、もう回数は気にせず、思い出したエピソードはすべて書こうかと思う。
次はロンドンからだね。ロンドンだけで最低2回にはわかれます。。
ありがとうございます。何かしら社会の役に立ったり、誰かの人生に影響するような記事を心がけていきます。 根が照れ屋なので 若干の不真面目は照れ隠しです。 ご承知おきを。