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競争から共生への移行

1.バブル経済下の不満

 80年代、日本は高度経済成長を続け、私は20代だった。現在の若者にとって、80年代は輝かしい時代と映っているだろう。しかし、当時の私は日本という国に沢山の不満を持っていた。
 バブル経済の最盛期には、「銀行から金を借りて株を買うべきだ」と主張する経済学者が多かった。銀行も株を買っているんだから、個人もそうすべきだと。地代も人件費も上昇し、物価も高騰した。
 現在から見れば羨ましい状況だが、当時はそれが閉塞感となっていた。バブル経済下では、真面目に働いている人は豊かにならず、派手な身なりの不動産屋が肩で風を切って歩いていた。愛人バンクが流行し、OL、女子大生、女子高生まで愛人商売に精を出していた。
 一方で、学校教育は画一的であり、会社に就職すると年功序列。個人の能力が発揮しにくい状況だった。
 85年にプラザ合意が発表され、猛烈な勢いで円高ドル安が進行した。ジャパンマネーが米国の企業、不動産を買い漁った。
 日本の産業政策も輸出促進から輸入促進へと転換した。欧州ブランドの価格が下がり、インポートブランドブームが起きた。
 日本一人勝ちの状況を改善するために、米国政府、国際金融資本は、日本政府に対して国際標準を迫った。
 当時のマスコミや経済学者は、企業と銀行との株の持ち合い、終身雇用・年功縞列、護送船団方式による銀行保護等、日本独自の企業運営、商慣習、法律等を批判し、国際化を促した。国際化の進展こそ、日本経済の発展につながると主張したのだ。こうして、株式の持ち合いは禁止され、資本や金融を自由化する法案が通った。
 今から考えれば、この頃から国際金融資本はバブル崩壊を予測し、その準備を進めていたのだろう。

2.欧米の競争と日本の競争は異なる

 私にとって、国際標準という言葉は魅力的だった。世界共通のルールを守れば、世界を舞台に活躍できると思ったのだ。しかし、その考えは間違っていた。国際標準とは、欧米政府、欧米企業が世界経済をコントロールするための方便に過ぎなかったのだ。
 欧州は、ISO(国際標準化機構)など、様々な国際認証を管理している。認証により、欧州市場への輸入を制限することが可能なのだ。そういう意味では、欧州が定める非関税障壁であり、欧州の認証利権ともいえる。
 米国は自由貿易体制を推進していたが、日本が輸入関税を撤廃する中で、米国は相変わらず関税を維持している。また、二国間協定により、常に自国に有利なルールを押しつけている。
 欧米が考える「競争」は、相手を叩き潰すことだ。相手から反撃能力を奪い、二度と立ち上がれないようにする。第二次世界大戦後の米国による対日政策も、これが原則だった。
 相手の強みと弱みを研究し、相手が強みを発揮できないようなルールを作り、相手の弱みには徹底的につけこむ。それが欧米の基本的な戦略である。
 日本が考える「競争」は、相手より優位に立つことだ。そのために、自分を鍛え、努力を続ける。他社と競い合っていても、その会社を倒産させようとは思わない。できれば、同じ業界の中で共存共栄しながら、業界を発展させたいと思っている。「競争」より「共生」が優先しているのである。
 国際標準も欧米の思想だ。国際標準によって、日本を叩き潰そうという考えはあっても、日本企業に国際ビジネスへの参加を促すものではない。自由貿易も同様である。自由貿易という原則で、日本の関税を引き剥がそうとしたに過ぎない。どの国も自国の利益を優先し、自国の利益のために国際ルールを定めようとするのである。
 プラザ合意によるドル高是正も、日本を「仮想の敵」に設定し、日本経済の弱体化が図られた。それに対して日本は、「米国が困っているのだから助けなければ」と考えていた。
 米国が中国に接近したのも、対日戦略の一貫だった。中国に投資し、中国経済を成長させれば、投資のリターンが得られるだけでなく、日本の製造業を弱体化することもできるのだ。
 欧米が日本に対して行った戦略は、現在、中国に向けられている。欧米は、中国を仮想の敵と認定した。そして、中国経済を叩き潰そうとしている。その結果、日本には追い風が吹いている。

3.バブルの反省とデフレ

 なぜ、日本はバブル崩壊以降、欧米の草刈り場になったのか。
 様々な意見があると思うが、私は次のように考えている。日本人は、バブル経済の経験と共に、二つのことを考え、反省した。
 第一は、「行き過ぎた拝金主義」である。日本中がバブル景気に浮かれ、金儲けに邁進した。しかし、バブル崩壊後、多くの人がショックを受けた。多くの企業が倒産し、個人も破産した人が多い。町の景色も変わってしまった。地上げで歯抜けになった土地は駐車場になった。町のコミュニティも破壊されていた。一時的に金持ちになった人も、結果的に財産を失ったのである。
 多くの人は、自らが金の亡者になったことを猛烈に反省した。バブル崩壊は天罰に違いない。これからは、もっと地道に真面目に生きるべきだと考えたのである。
 これは一人一人の心の中で起きたことであり、他人から言われたことではない。従って、記録に残っているわけでもない。
 それでもこの消費者心理の影響は大きかった。デフレが持続したのも、こうした心理的な影響が大きかったのではないか。しかし、バブル世代はリタイアし、世代交代が進んでいる。デフレ解消と共に新たな消費スタイルが生れるかもしれない。
 第二は、「日本の一人勝ちは許されない」ということ。日本の製造業は強く、繊維、家電、半導体、自動車等が次々と世界市場に進出し、次々と米国から攻撃を受けた。そのため、日本生産からアジア生産、中国生産へと移行した。
 すると、今度は中国製品が供給過剰となった。そして、米国から攻撃されている。
 日本のカイゼン、生産管理、品質管理は素晴らしいのだが、ある意味で過剰なのかもしれない。
 日本は仮想の敵を想定しても、敵を潰そうとしない。そのうえ、技術供与を惜しまない。その結果、世界的な供給過剰を招いてしまうのだ。
 中国生産からアセアンやインドに生産拠点を移しても、これまでと同様の考え方では、再び中国の二の舞になるだろう。
 

4.欧米の問題解決は二元論

 欧米が考えるグローバリズムでは、世界を一つの市場と考え、一つのサプライチェーンを構築しようとしている。その基本は、欧米文化が主導する世界共通のライフスタイルだ。最近、世界共通の社会的課題が指摘されている。パンデミック、CO2削減、再生可能エネルギー、EV推進、性的マイノリティ対応、昆虫食などだ。
 同じ社会的課題でも、日本文化で考えると別の解決方法が見いだせる。パンデミックの解決は、ワクチンだけではなく、発酵食品、緑茶、食生活の改善等による免疫強化も有効だ。CO2削減も、全ての火力発電を禁止するのではなく、効率の良い火力発電、アンモニアや水素による火力発電等を含めたトータルな発電のバランスを考える。
 ガソリン車を禁止して全面的かつ強制的にEVに転換するのではなく、トヨタが提唱するように生活者に多くの選択肢を与えながら、技術革新によってCO2削減を目指す。
 性的マイノリティについても、日本にはキリスト教のような厳格な差別意識はなく、元々大きな差別は存在しない。食料危機についても、日本では伝統的に肉食は少なかったし、大豆タンパクの活用も進んでいる。一部地域では昆虫も食べるが、その他にもオキアミ等の動物性プランクトン、ミドリムシなど藻類等も食べる。
 欧米の発想は、一神教に基づくもので、常に善か悪か,神か悪魔かという二元論に帰結する。ワクチンを打つのか打たないのか。EVに変えるのか、ガソリン車のままなのか。あらゆる問題解決の解決策が圧倒的に少ないのだ。
 それに対して、日本は多様な選択肢を持っている。多様なライフスタイルも認めているし、多様性を認めるから差別意識も少ない。神か悪魔か、ではなく、神もいれば仏もいる。八百万の神様もいれば、亡くなった人は全て仏様にもなる。
 日本に多様性が残っているのは、競争ではなく共生を原則としてきたからだ。競争の原理では、常に仮想の敵が必要になる。敵を想定しなければ戦略が立たない。しかし、共生の原理では敵を想定する必要がない。自分を磨き、自分を向上させるだけでいい。必要なのは外部を攻撃する戦略ではなく、自己鍛練や瞑想、悟りである。

5.競争の原理と一神教

 競争の原理において、個人は非力である。個人よりチーム、企業、国家が重要だ。強いチームを結成すれば、強いチームと戦える。強い企業に所属すれば、強い企業と戦える。敵を設定し、それと戦うのが基本原理である。
 競争の原理では、強い者が弱い者を支配していいと考える。弱肉強食の世界だ。しかし、共生の原理では、どんなに強い動物といえども自然の一部と考える。肉食動物が草食動物より強くても、草食動物を滅ぼしていいわけではない。そんなことをすれば、生態系が崩れ、肉食動物も絶滅してしまう。
 競争が可能なのは、競争ができる環境があるからだ。設定されたステージの中では競争が可能だが、それを世界に拡大することはできない。
 その意味で、グローバル経済、グローバリズムは論理的に無理がある。グローバル経済を推進すれば、最終的に経済が弱い国は強い国に負け、富や資本を収奪される。富は偏在し、貧富の格差は拡大する。超富裕層が生まれ、飢餓に苦しむ貧困層も生れる。
 勝った国は良いが、負けた国がどのように生きていけばいいのかは考えていないのだ。
 共生の原理で重要なのは、戦わない知恵だ。戦わずに共生するにはどんな信条を持ち、どんな生活をすればいいのか。日本という国は、これについて縄文時代から数千年もの間、徹底して考えてきた国だと思う。そして、その蓄積の上に、現在の日本が存在している。それについて考えてみたい。:
 一神教は異教徒と敵対する。そして争いが起きる。争いを避ける共生の原理では、万物に神が宿ると考える。多神教、八百万の神への信仰では対立は起きにくい。戦わない国を作るのに、一神教は適していない。
 逆に言うと、戦争に勝つ国、戦う国になるには一神教が有利である。明治以降、日本が天皇を頂点とする国家神道を目指したのも、戦争に強い国を目指したからだ。
 欧州においても、かつては多神教が存在していた。キリスト教でもマリア信仰が盛んな時代もあった。しかし、強国を目指すにつれ,より一神教の性格が強くなったのだろう。あるいは、一神教の国が勝ち残ったともいえる。
 「神の元に兵士が集い、神のために戦う」といえば、戦うことを正当化できる。しかし、多神教の世界では性格の異なる多くの神々が共存している。神々が共存しているのだから、人間も共存すべきだと考えるのが自然だ。
 多神教の日本人にとって、キリスト教もイスラム教も対立すべき相手ではない。共存すべき相手なのだ。従って、日本人は、自分以外の信仰も尊重するし、人格も尊重する。。

6.多くの神々が集う神社

 日本の神社では複数の神様が祭神として祀られている。例えば、江戸総鎮守の神田明神では3神が祀られている。一ノ宮として、大己貴命(オオナムチノミコト)が天平2年(730年)に鎮座。二ノ宮として少彦名命(スクナヒコナノミコト)が明治7年(1874年)に大洗磯前神社より奉祀された。三ノ宮として平将門命(タイラノマサカドノミコト)が延慶2年(1309年)に奉祀された。
 最初に出雲系の大己貴命が祀られ、義兄弟の少彦名命が加わった。平将門は天皇への反乱の罪で処刑されたが、その後、疫病が怨霊の祟りとされ、それを鎮めるために祀られたもの。
 その他にも、境内には多くの摂末社がある。籠祖神社(祭神:猿田彦大神、塩土翁神、天孫瓊瓊杵尊)、金刀比羅神社(祭神:大物主神、金山彦命、天御中主命)、日本橋魚河岸水神社(祭神:弥都波能売命)、三天王(いずれも祭神は建速須佐之男命)、三稲荷(いずれも祭神は宇迦之御魂神)。様々な事情により、神様が増え、共存している様子が見て取れる。
 そして、多くの日本人は、初詣とクリスマス、神前結婚と仏式の葬式を違和感なく受けいれている。
 共生の原理の目的は戦わないことであり、そのために神は存在している。異教徒を滅ぼすための戦争という発想は存在しないのである。
 

7.競争と共生のビジネス

 ビジネスの世界は、基本的に競争の原理に支配されている。それでも、欧米と日本の競争では中身が全く異なる。
 競争の原理では、事業規模を拡大し、合理化を進め、価格競争力を獲得することを目指す。合理化を進めるということは、人員を減らすことだ。企業の利益のために雇用を減らすことが正しいとされる。
 共生の原理では、量的な拡大は目指さない。事業の持続、事業の継承が目的である。量的な拡大には、持続性を損なうリスクが伴う。大きすぎる組織は、分裂し、崩壊するリスクが高まる。
 共生のビジネスにおける成長とは、暖簾分けである。ビジネスの花が咲き、実を結んだら、広範囲に種を飛ばす。それにより暖簾は持続し、継承される。従って、無用な競争が起きないように、ビジネスのテリトリーは厳しく管理される。
 競争の論理、企業の論理では正しい戦略でも、共生の論理、個人の論理では正しくない。人々が共生するとは、企業の利益を減らし、多くの人に利益を配分することだ。株主のための会社ではなく、社会のための会社という発想が強い。企業は大きくし過ぎてもいけないし、儲け過ぎてもいけない。それが共生の原理におけるビジネスである。
 競争の原理と共生の原理では、産業政策も異なる。競争の原理では、自由競争を促す政策が正しいとされる。関税撤廃が良い例だ。しかし、共生の原理では、関税は不可欠となる。適正な関税をかけることで、国内産業を保護し、持続可能な社会を実現できると考える。

8.旧来の日本は共生の原理

 価格競争は消費者利益に貢献すると言われるが、価格競争に敗れて倒産する企業の社員は大きな損害を受ける。
 競争の原理では、人件費の高い国内から低い国に生産拠点を移すのは正しい。価格競争力を獲得し、市場シェアを拡大できる。
 共生の原理では、そもそも価格競争が正しいとは考えないし、海外生産によって国内産業が持続できなくなるのでは、意味がないと考える。
 共生の原理は、旧来の日本の商慣習に近い。限定された市場における持続可能なビジネスの仕組みである。日本では、高度経済成長時代でも、競合他社を潰すような競争は行わなかった。市場全体が成長したので、業界全体が成長し、各企業も成長した。欧米的な競争ではなく、国全体が成長する共存共栄のメカニズムが働いたのだ。
 日本株式会社、官民一体と言われた日本独自の体制は、海外からの圧力により解体された。そして、欧米企業が進出しやすくするための国際標準が導入された。企業は株主の利益を優先すべきという考え方も、外国人投資家がもたらしたものだ。
 外資企業が日本に進出したが、多くの場合、日本には定着しなかった。逆に、グローバルに展開する日本企業も増えてきた。しかも、共生の原理を失ってはいない。 

9.共生の支援で世界に平和を

  日本と中国の海外支援が比較されるが、中国は競争の原理による支援、日本は共生の原理による支援である。中国は経済力の強い大国は、経済力の弱い小国を支配してもいいと考える。目的はあくまで自国の利益拡大である。そのための手段として支援が行われる。
 日本は、経済力の弱い小国に対して、技術を供与し、ビジネスを提供し、利益を配分することを考える。支援の目的は、その国の経済力を強くし、自立できるようにすることだ。
 各国が自立すれば、飢餓は減少する。貧富の格差も改善されるだろう。
 そして、世界から争いが減り、平和に近づくのではないか。日本が縄文以来、蓄積してきた平和の論理、共生の論理を世界にアピールする時代が到来したのかもしれない。平和になるための法整備もお願いしたいと思う。

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