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井戸端会議の何気ない「瞬間」が僕に教えてくれたこと。

最初のお仕事は、高齢者へのアンケート調査から始まった。

僕は大学生の頃に、
地元の京都府丹後地域で、
同年代の大学生が立ち上げた、
まちづくり会社にインターン生として関わり始めた。

大学を卒業してから3年間の間で、
インターン生だった僕は、社員になり、
事業内容も採用や移住の支援、
クラフトビール事業も立ち上げ、
幅広くお仕事をやらせていただいている。

本当にありがたい。
そして周りの皆さんに支えられている。

さらに社員も毎年1人ずつ増え、来年には自社のビール醸造所を構えることになり、すごく刺激的な日々を送っている。

けれど、時々、苦しくなる。

「僕って何のために仕事をやっているんだっけ?」

やりたい自分と動き出せない自分。
頭では理解できていても、心と身体が追いつかないので落ち込む。

仕事に追われ、自分を見失いそうになった時、
僕が参加した、井戸端会議の何気ない「瞬間」救われた。

至福の一杯は、学校帰りの梅昆布茶。

井戸端会議とは、井戸端などで、
近所の女性達が水くみや洗濯などをしながら、
人のうわさや世間話をすることをからかっていった言葉。
分かりやすく言うと、
主婦たちが家事の合間に集まってするおしゃべりのことです。

僕の地元では、
昔から日常的に野菜や魚を物々交換したり、
用事が出来れば、近所の方に子守りをお願いするなど、
いわゆる「ご近所付き合い」の文化が強く根付いています。

両親が働いていた僕は、
学校帰りは実家の前に住んでいる
おばあちゃんの家へ行き、定期開催される井田端会議で、
近所のおばあちゃん達と、ああでもないこうでもないと、
話すのがルーティーンでした。

各自持ち寄りのお菓子とインスタントコーヒー。
井戸端会議のお供といえば15時くらいから再放送されるドラマが定番。

コーヒーの飲めなかった僕は、
少しでもコーヒーが飲める気分を味わうために
おばあちゃん達と同じティーカップに、
梅昆布茶を入れてもらい
飲んでいたのをよく覚えています。

変わりたい僕と変わらない井戸端会議。

月日は流れ、小学生だった僕は社会人へ。
おばあちゃん達は昔と変わらず、井戸端会議を定期開催している。

先日、たまたま僕の休日に井戸端会議が開催されていたので、
飛び入り参加してきました。

久しぶりに会えたからと地元で人気の醤油をくれた。ラッキー!

今回は室内ではなく、野外での開催。
(最近のトレンドは野外で井戸端会議を開催しながら、地元スーパーの移動販売車を待つことらしい。笑)

昔と変わらない温かい言葉と大きな笑い声、
沢山の笑顔とお菓子で迎えてくれたおばちゃん達。

何だろうこの感覚。すごく懐かしい。
その瞬間、小学生のあの頃に戻ったような、
居心地の良さを思い出した。

変わり続ける世の中で、変わらないものがあっても良いと思う。

数年前の常識が今では非常識になる。
変化する時代に追いつこうとして、
生き急いでいる人が多いかもしれない。

「結果がすべて。」

この言葉が知らず知らずのうちに
重くのしかかって、僕は焦っている。

何かを成し遂げたい。何者かになりたい。
僕は結果を求め、他人と比べることが得意になっていた。

社会人になり、自分で選択できる時間が増えたはず。
でも変化し続ける時代に適応しないと、
不思議と取り残された感覚にもなる。

自分らしくなるために時間が使えるはずなのに、
気づけば時間に追われている。

きっと僕は、手段であるはずの「変化」が目的になっていたんだ。

オンライン会議が主流になる時代に、
井戸端会議は残っている。

変化を求められる時代の中にも、
変化を求められない時間や瞬間に
救われている人は、きっと沢山いる。

僕は「何のため」に変化が必要なのか、
もう一度、問い直していきたい。


久しぶりに参加した井戸端会議の何気ない「瞬間」から、
自分にとって大切にしたいことを学んだ気がする。

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