随筆/往きて、還らむ

妻も娘もピアノ一すじ、だけど私はギター推し。
ぴえん。

J.S.バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』を村治佳織が演奏したこのチャンネルは、主に、私の望みの喜びである。
私と同い年の村治佳織、べっぴんさんね、声もいいのよ。

弦を指がかすかに掻く、hiccup、というノイズを待ちわびる。端正な主旋律のなかで、ささやかな私(たち)が必死に、豊かにかなしく生きて死ぬ、また、ささやかな私(たち)が必死に、豊かにかなしく生きて死ぬ、また。歴史の大河は、この曲のように滔々と流れ、私(たち)の命は、この finger noise の Bach小川 のようにささやかに、かなしく、また豊かだ。

生きて死ぬ――『て』と『死』の隙間には、いかに人の力でもがこうと、半角スペースほどの余白もない。どんなイベントも、日々に忙殺されて、あ、気づいたらもう翌日か、そうだ、どんなイベントも・・・・・・・・、気づいたらもう翌日に控えている。
怖くはない。つらくもない――それはつらさからの解放に他ならないのだから――。ただ、私ははたして、hiccup、とかそけく鳴る、この世の羽音であれただろうか、いや、それは贅沢だ。
などと、私はうっかり、みずから見も知りもせぬ彼方ばかりを、思う。
眠りを待つように、気長に待つ。

何億、何十億、何百億の、還りたもうたすべての魂に、ただ手を合わせる。そのとき、饒舌な私に、ことばは無い。いったい、なにを他人行儀に語りうるだろうか。どの魂も、他ならぬ、私ではないか。
このひとときを、祈り、と呼んでかまわないならば、この祈りからきびすを返して吐き出すことばは、その脂ぎった体臭で、耐えられぬ気持ちにさえなる。

それでも、私は踵を返して、つかの間のこの世に対峙する。どう転ぼうと私の体臭にまみれた、ことばを紡ぐ。どうつくろおうとあなたの体臭にまみれた、ことばを読む。
私(たち)の遺骸なきがらは、どれも、どれも、かすかに、土と草のにおいがしよう。やがて安らかである。
生者は、生まれ、悩み、愛し、苦しみ、愛おしみ、私はそれらを、拙いことばに託そう。バッハはそれらを、音に託す。単純で豊穣な音に、思索と恍惚と諦念に満ちた音に託した。
ことばは、このようであることができるのだろうか。濁りない祈りのまにまに、私はそればかりを怪訝に思うのだ。

Hiccup.

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