ピアノ教室、ひとり

1年が終わろうとしていますね。
家に帰り、妻とちびちゃんが寝静まってから、ぼくはこの1年を頭から振り返ろうと思うのですが、違うことばかりが頭に浮かんで全然振り返られません。

たとえば、小学6年生からピアノ教室へ通い始めたこととか。

学校の音楽の授業は音楽室と呼ばれる部屋へ移動しました。そこにピアノがあるからです。
クリバラ先生という女性がピアノを弾き、指揮をして、ぼくたちに音楽というものはなにか、教えてくれました。

まだ授業がはじまる前から、ぼくたちは音楽室へ移動します。でないと、時間通りに始められませんから。
クリバラ先生は怒らなくても怖いですが、怒ると更に怖いので、みんな早く行くことにしていました。
口が大きく、その唇には真っ赤なルージュがたっぷり塗ってあります。声楽を学んでいたようで、声量が一般の大人とは桁違いです。そのクリバラ先生が声を張り上げて怒ると、怒られているのがぼくでなくても、ぼくの体はびくんと縮まるし、他の子もびくんとして、みんなで俯くしかないのです。

という訳で、早く部屋に着くと、授業開始までの時間、ピアノを弾ける子がたらららーんと弾いてみせます。
流行りの曲を弾かれるとぼくたちはウキウキした気持ちになり、みんなでピアノを囲んで口ずさんだりしました。

ピアノが弾けるっていいな、と思ったぼくは、上手な子に教えてもらうようになりました。
言われた通りにすると、弾けました。
練習しなくても、誰でもすぐにできるようなものを教えてくれたからです。
だけどぼくはそのことに気がつかず、ピアノというものはやればすぐに弾けるものだという思い違いをし、ピアノ教室へ行くことを願ったのです。

通ってみて、すぐにわかったことは、練習しなければ弾けるようにはならない、ぼくは練習が好きではない、ということでした。
でも、やめることは許されません。
あなたがやりたいと言って始めたのだから、弾けるようになるまで通いなさい、と。

ピアノ教室の先生はそんなぼくの心を見抜いたようで、課題を3曲仕上げたら、好きな曲を1曲弾いていいということになりました。
音楽室でみんなに喜ばれる曲を弾けるようになりたいぼくは、なんのために練習するのかわからない、弾いても聴いてもちっとも好きになれない課題曲をまじめに練習しました。
すると、先生はぼくが弾けるようになりたい曲の楽譜をどこからか手に入れてきて、じっくりと教えてくれたのです。課題曲よりもはるかに難しい曲を、ぼくが弾けるようになるために。

弾けるようになると、うれしくて、平坦な道をひたすら走り続けるような退屈な課題曲はさっさと片付けるようになりました。褒められて、気を良くして、ピアノって楽しいなと思い始めた頃、先生が体調を崩し、やめてしまったのです。

通っていた教室には3つの部屋があり、ひとつは広めの幼い子たちのための部屋、あとのふたつは小さな個室でした。
ぼくが通った月曜日の夕方は個室のクラスがふたつやっていて、広い部屋は閉まっていました。

新しい先生は以前の先生よりも若く、すらりと背が高く、背中の中ほどまである長い髪の女性でした。
前の先生と同じように、3曲弾けるようになったら好きなものを1曲弾いて良いということになりました。
練習をしたり、しなかったり、していかなくても、ちゃんとしなさいとは言われませんでした。
先生は、隣の部屋の先生と話すことがありましたから、ちょっと待っててといって部屋を出ていきます。
隣の部屋の先生は次に来る生徒を待っているようで、ちょうどぼくの行く時間帯は誰のことも教えていないのでした。
練習しててね、と言われたのではじめのうちは言われた通り練習をしました。
でも、戻ってきた先生が泣いていたり、ずーんと沈んだ表情でいるのを見ると、何があったのか、気になって仕方がないのです。
そこで、ある時ぼくはききました。
どうしたの?なんで泣いてるの?と。
すると、先生は泣きながら話しました。

好きな子いる?

いない。

そっか、まだはやいかー。好きな子がいたら、わかるかなと思ったんだけど。どうしてわたしがこうなっているか。

誰のことも好きじゃない。

いまはね。でも、そのうちきっと好きな人ができるよ。

いるの?

うん。そのひとも、わたしのことを好きだったの。だけど、もう好きじゃないって。わたしではないひとのことが好きなんだって。

先生は好きなまま?

ぼくの質問に先生は答えませんでした。
両手で顔を隠して、そのままピアノの鍵盤に倒れ込むようになったので、じゃーんと妙な和音が響きました。

ちょっとごめん、そう言って先生は部屋を飛び出し、終わりの時間まで戻ってきませんでした。

それからというもの、先生はぼくがやってくるとすぐに立ち上がり、行ってくるねと隣の部屋へ姿を消します。なにを話しているのかはわからないけれど、壁の向こうではもうひとりの先生の声がしました。それでやっぱり、泣き声がきこえてくるのです。
戻って来ると、彼、と呼ばれる人について、先生はぼくに話します。ぽつぽつと。
その時のぼくは先生の話を聞き漏らすまいと真剣だったと思います。
いったい彼女がなにに傷つき、悲しんでいるのか、理解したいと思ったのです。
もう、ピアノどころではありませんでした。

毎週毎週、悲しみに暮れる大人の話を聞く、ピアノではないなにかの教室に変わったのです。そして、もともと痩せていた先生はもっと痩せて、ぼくに話すこともしなくなり、ぼくが教室へ行くと、にっこりとした表情を見せてからどこかへいなくなり、終わりの時間にも戻って来ないようになりました。

部屋にはピアノが1台あるだけです。
そこでぼくは、ほかにやることもないのでピアノを弾きました。練習はしません。弾ける曲を、繰り返し弾きました。
それで時間になると帰りました。

しばらくして先生はやめました。
また別の新しい先生がやってきたけれど、ぼくが少しも練習をしないので、熱心な新しい先生は私がやめるか、あなたがやめるかだと怒り、ぼくはやめました。

ぼくたちの暮らす家には、妻の育った家にあった古いアップライトピアノがあります。
ピアノ教室へ通った1年が長いか短いかわかりませんが、そのときに練習して弾けるようになった曲は今でも弾くことができます。

またそれ?と妻が言います。
その度にぼくは答えます。

これしか弾けないんだもの。

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