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アディクションのこと

最近たまたま数人の方と「アディクション(中毒、依存症)」についてお話しする機会が重なりました。
それで「そう言えばアディクションって、自分を物語るキーワードの一つだったな」と思い、先日kindleから出した本にも少し書いておけばよかったなと思いました。
ギャンブルにだけは走ることはありませんでしたが、これまでにお酒、煙草、過食、人間関係、いろんな物に中毒しました。

夕方になると日本酒をコップについで飲みながら家事をするというキッチンドリンカーのような時期もありましたし、子育て中は、子どもが寝静まった後にいくつものお菓子の袋をテーブルに広げて、気分が悪くなるまで過食していた時期もありました。
一番長く止められなかったのは煙草でした。何十年と煙草を吸い続けていてもお肌ぴかぴかで元気に過ごしている女友達もいる中で、私は明らかに煙草が体に合いませんでした。
吸った後にどっと疲れるのをいつも感じていましたが、それでも寂しさや虚しさをごまかす為に吸うのを止めることができませんでした。
ところがある時にある友人から「煙草が路子ちゃんを支えてるんだね。煙草が無いと居られないくらい、路子ちゃん、がんばってるんだよ。煙草に感謝して吸ってていいね。」と心から言われた時に、一瞬にして煙草を吸うことに対する罪悪感が消えました。

その一言を聞いてから、煙草は忌むべき依存の対象ではなく、私を支えてくれる感謝の対象になりました。それからは心のなかで「ありがとう」と言いながら吸っていましたが、ある時にふと「今なら手放せるかも」と思い、最後の一箱に「今までありがとうございました。」と心から感謝して、箱ごとゴミ箱に捨てました。その日から今まで一本も吸ったことがありません。
あの友人の一言によって煙草に依存してしまう自分を赦せたことで、煙草と私を縛り付けていたネガティブな執着の鎖が解けたのだとそう思います。
もちろんこのプロセスは重度のアルコール中毒などには当てはまらないかもしれませんが。

あれほど依存症チックだった私が、今は何にも依存しないで生活できているということに、先日アディクションについてお話ししていて改めて気づきました。
もやっとした居心地の悪さを感じた時に、それを払拭しようと何かに手が伸びる。それがアディクションの心理だと思うのですが、この心の動きは特に依存症の人ではなくても、日常の中で誰にでも頻繁に起こっていることだと思います。漠然とした虚しさや焦燥感や自己否定感、イライラや寂しさ、そんなもやもやしたものを感じた時に、無意識のうちにSNSを開いたり、コーヒーや甘い物に手が伸びたり、情報を漁ったり、ドラマや映画を見出したりする、これは依存症の心理に近いものがあるのではないかと思います。
その衝動、動機の奥底には「ありのままの自分」を感じることへの抵抗があります。
けれどもありのままの自分を感じることから逃げようする「その瞬間」に気づいて、敢えてその抵抗感をじっと感じてみると、実は自分が避けよう逃げようとしていた物の正体は、とてもシンプルで純粋な、全く罪の無い感情エネルギー(そのほとんどは愛を求める叫び)であることが分かると思います。感情エネルギーは、それに居場所を与え、充分に認めて感じてあげると自然に通り過ぎて行きます。
そういう意味では、昔からスピリチュアルな修行に禁欲の習わしがあるのは、欲望を不浄な物だとして退けて浄化するためではなくて、欲望を駆り立てる感情エネルギーを真っすぐ見つめることで、それそのものがある意味で幻のようなものであることを見抜くためなのではないかと思います。

不思議なことに、アディクションについて考えていた時に、最近起こったある変化のことが頭に浮かびました。
先月の誕生日の朝、唐突に「もう奇跡のコースを読まなくていい」というインスピレーションがありました。約7年間、朝起きたら開くのが習慣になっていたワークブックを、この日から開かなくなりました。
そうしてみて気づいたのは、ありのままの自分を赦せるように導いてくれたのは外ならぬ「奇跡のコース」だったのですが、ワークブックを毎朝開くという習慣が、いつの間にか自分の中である意味での「防衛」にすり替わっていたということでした。その習慣を維持するという動機の底に「堕ちることへの恐れ」があったのです。それは自分の中のある部分は許容するけれど、ある部分は認めず排除しようとする心の動きから来るものでした。

けれど、自分の内側にどのような闇も受け入れることができる器があることを発見して、そしてその器が何を受け入れたとしても変化することが無いことが体感として分かり、だんだんと、どんな体験、思考、感情に対してもそのまま開いていることができるようになって来たように思います。(これを「絶望力」と呼んでいます(笑))

「私」とは、光であり闇である。と同時にそのどちらでもない、ただすべてを受け入れている「空」であることを感じるようになったこと。コースを読む「習慣」が必要無いと感じるようになったのはこのためかもしれません。
スピリチュアルな探求や、神への信仰が、いつの間にかアディクションと同じく、ありのままの自分を受け入れることからの逃避にすり替わってしまうということは、往々にしてあると思います。
神は何も排除しない。聖霊の目も何も裁かず排除しない。
神の眼差し、聖霊の目で自分自身を見ることをし始めた時、それは決してきれいごとでは済まされないプロセスが展開します。
明け渡しのプロセスでは、もっとも受け入れ難い、最も醜悪な自分と対峙することになるからです。
防衛せずにありのままでいること。ありのままを明け渡そうとすること。今の自分にとって「信仰」とはそういうことのような気がしています。


※kindleから、これまで書いてきた記事を編集して電子書籍を出版しました。
「なにもなさに開く ふるさとへ還る ~心を物語から解き放つ~」

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