見出し画像

週間レビュー(2022-8-21)_Zitti E Buoni

ゆったりしていたが、日々なんとなくイライラしていた。
体力のなさによって観点の量に対してアウトプットが鋭くならかったり、色々と進まないことが多いのでトレーニングを始めようと思っている。

イメージ・メイキングを分解する

東京都写真美術館自体初めてだったが、今回の展示内容はとても勉強になった。

木本圭子
コンピューター演算によって、手作業の身体的緊張感を切り離した時、どのような表現が生まれるか?数理的でデジタルアートのようでいてマテリアルにも出力しており興味深かった。
藤幡正樹《ルスカの部屋》
基本原理は走査型電子顕微鏡と同じで、対象にレーザーを当て、その反射光の量とピクセルの位置を同期させて画像を生成。しかし、「目のデジタルデータ」はこのレーザーからの物体認識を逃れているし、凸面鏡にはわたしたち観客が映し出されてるように見える。世界を認識する方法論、現実を転写することの意味性を考えさせられる立体作品。
タマシュ・ヴァリツキー〈想像のカメラ〉
存在しないが、あったかもしれないカメラのフォームが壁中に展示してあった(写真禁止のためネットからの拾い画)私たちのカメラの形、構造、方法は決して一つではなく複数の世界線が存在していること、それによって認識される世界の見方も異なっているのだろうという不思議な感覚に襲われる。個人的には、構造美としての想像のカメラのモデリングに建築っぽさを感じてとても興味を持った。美しい構造体を持ったものからどんな写真のようなイメージが出力されるのか想像するのがとても楽しい。
タマシュ・ヴァリツキー〈想像のカメラ〉のテキスト
ここまで考え込まれている上に、20種類以上のカメラのイメージがあった。

光を閉じ込める、ネオンアート

ネオンアーティスト市川大翔さんによるネオンの勉強会は今週一番勉強になった。

ネオンは真空放電で発光している。ガスの種類によって色が異なり、塗料によって色調の調整を行う。(真ん中の赤色のネオンが原色のネオンガス、アルゴンガスは青色。)
縞々にするにはガラス管とガラス管を接合させなければならない。
電子極をうまくつけ、そして真空化するには4-5年修行が必要だそう。
ネオンの道具たち。変圧器は海外製らしい。
立面図が美しすぎないでしょうか?光が閉じ込められてる。
なぜかバックが青白く光った。モワモワとした立体感。
ネオンの赤い原色の発光は炎のような暖かさを感じる。
とても暖かいオレンジ色の発光。光というより線のような。

光の観点から見る、ヴァナキュラーとエンジニアリング
ネオンはLED等の発光方法よりも格段に難しい。故に昭和以降、街の中でネオンの存在が廃れるのも早かったのかもしれない。しかし、その難しいという部分にこそヴァナキュラーな光としての意味が存在しているように思う。

現代都市空間における光の生成方法を考えると、都市空間の光は「居心地の良い環境生成」「商品やものの人への視認性を与えるため」の2つの目的によって操作されていると考えると、その上では、簡単に発色するLED等をいかに間接照明のように処理するか、またはライティングに何らかの補助を入れて温もりを与えるかなどの外的な処理方法が重要になり、そもそものその発光方法を目的のために変えようとする取り組みは少ない。リスクをできる限りさけ、設計通りに行おうとするエンジニアリングとしての光である。

そう、プリミティブな光というものは既にエンジニアリングされた存在として享受する以外にないのが現代の都市空間である。エンジニアリングされない光はもはや太陽光以外にない。しかし、光はエンジニアリングされないものとしても存在したはずである。そこをどうにか取り戻せないか?

不可逆性の高いものづくり
全てのものづくりにおいて再編集性が加速度的に上がっている。一度書いたら戻せないようなクリエイションツールは流行らないし、素人からしたら最悪の代物だと思うが、逆に不可逆性があるが故の表現の面白さ味わい深さは消えていったように思う。ものづくりにおけるクオリティというものは再編集性の上に存在していることになった時に、そのもの自体のコンテキストが消えてしまう。ガラス細工やそれこそネオン加工のように不可逆性の中でクリエイションやライブ性を持った表現の方が心に刺さるのだ。

ロックと批評精神

ManeskinのロックはGenZとしての意志表明のようなものを強く感じると同時に、アーキテクトもロックにそして解放運動のために、カッコつけて振る舞わなければならないことに気付かされる。

「俺らにThe Rolling StonesやQueenみたいな振る舞いを期待しても無駄だ」「20歳がやってるバンドに、1970年代や1980年代の再現を期待するのって、愚かで無意味なことだよ。俺たちがいるのは2022年。自分たちが満ち足りて、ハッピーになれる新しいことをやろうとしている」

<若かりし日に経験する目立つことへの恐怖/美しいモラル、未熟な人々による/世俗文化、ステレオタイプだらけの>
<でも僕には自分のやり方がある/人々からも注目されはじめ、度胸のある3人の友達がいる>

(“Lividi sui gomiti”)

<俺の話は、やつらには通じない>
<だけど、マジで信じてるんだ/これで一発当てられるって/道は上り坂だとしても だから今、鍛えてる>

(“Zitti E Buoni”)

ムカついているのは、経験則によるマウンティング、仕事仲間との関係性、自分は儲けているかどうか、誰と知り合いなのか…そんな事を話して我々の時間を搾取的に奪っていく大人たちである。そしてそれに飲み込まれていく若者たちである。それでも世の中が前進していたら良いが、決してそうではない時に、彼らの言葉は耳を傾けても聞くに値するものではない。我々の世代には我々の世代の美しさや良さの定義が存在するとき、その話が全く通じないとしたとしても、その美しさを求め続けて続けていくしかない。

自分達と比べて、何もできないやつ前提で会話をされる時ほどイライラすることはない、努力不足だ、君たちの年齢の時自分達は…みたいな言葉も同様だと思う(何年多く生きているんだ、どれだけ時代が異なると思うのだ、どれだけ考え方が異なると思っているのだ)そこで考えを吸収しよう、お互いの考えを手を取り合うように理解し合うとしなければ、何も変わらない。分断しかない。それを多様性やらなんやらと叫んでいる大人たちほどわかっていない。

歩み寄るべきなんだろうと思うし、彼らから学べるものもあるのだと思うが、信頼できる人以外は信頼する必要はないし、Maneskinの言うように<俺の話は、やつらには通じない>これに限るように思う。戦う度胸さえあれば媚びずともどうにかなる、彼らに我々の倫理性は通じない。腐敗した政治、問題が増え続けているのに馬鹿みたいに稼働を続ける資本主義、無思考で視野の狭いデザイナー達…ならば信用できる仲間と共に我々より良い社会に向けて挑むのみである。

「Måneskinの成功は、イタリアの音楽業界に真の変革をもたらすチャンスなんだ。ヨーロッパの国では、海外での成功が難しいと考えられているから、アーティストはリスクを冒さない。俺は、世界進出が可能だと証明したい。音楽に国境はないはずだ」(*2)

怒りと好奇心、この二つは力強い運動の源である。そして、できる限り個人できる手段の中で社会をかき乱さねばならない。自分にとって社会に対してロックに振る舞える手段は「建築」なのだから。誰にとっても難しいと思われていることに挑み、激しくリスクを冒して、行動で証明することだ。

書いてもイライラしているので何かしらアウトプットや制作に落とし込もう。
来週も頑張ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?