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推敲するということ

特に忙しかったわけではないのに、noteには書きかけの記事が4つも眠っていた。もう今更UPできんなというものばかりで、あぁ、流れていくなぁ、時間は、と思う。

今、書いている小説がうまくいっていなくて行き詰っている。ちょっと離れてはまた書いて、でもまだまだ核心にはいけていない、という気がする。
一番大事なところが書けていない、いや、むしろ書かないほうがいいのか、決めかねている。
小説だけではなくて、答えのないものはどれも同じかもしれないけれど、結局は自分で決めなければならない。失敗するかもしれないし、うまくいくかもしれない。決めるということは両方背負うことだ。
心に関係することは、時間が経つと変わっていくこともある。あのときはいいと思ったのに、今読むとなんじゃこりゃ、みたいなことにもなる。
今にスポットライトを当てるのが一番いいのはわかっているけれど、過去も未来もひとつづきの道なのだから、どこを切り取っても自分がいることには変わりはない。
夏に娘の高校のオープンキャンパスに行ったとき、とある芸術系の高校で「芸術とは、自己表現と他者理解です」と言った人がいた。
自己表現よりも他者理解は難しい。自分は他者ではないから、自分から出てきた作品を客観視することはほとんど不可能に近いと思う。
でもやらなきゃならない。できる限り、他者になりきって俯瞰しなければならない。推敲とはそういう作業だと思う。他人に委ねるのはもちろんアリだけれど、自他を分離させる作業は、書くことと同じくらい必要なことのような気がしている。なんだか瞑想にも近い気がする(瞑想はめちゃくちゃ苦手。常に何か考えてしまうので)
できているかわからんが、とにかくベストを尽くそう。
結局、最後にはそう言い聞かせている。やり切っても後悔するだろうけれど、やらないよりはマシなはず。
なんでこんなに執着するんだろうなと自分でも思うけど、たぶんアレ。
一生懸命やれなかった過去のわたしが今でも悔やんでいるからだと思う。未だに夢に見たりする。だからダサくてもとりあえずやろうと思える。
これはプラスではなくて、マイナスを埋める作業なのかもしれない。
それでもいい。
桜が咲くまでには、仕上げたい。


◎写真はみんなのフォトギャラリーからお借りしました

#エッセイ #小説 #推敲 #書く

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