見出し画像

破壊の女神③

  3

 光政大学社会学部の研究室は第三室まであり、僕ら下っ端研究員の詰め所は一でも二でもなく第三の研究室となっていた。第一はゼミで使う演習室で、第二は学生諸子の詰め所となっている。しかし第二と第三の垣根はほとんどなく、僕はいつも忙しそうな学生たちと肩を並べて研究員としてのノルマの処理に追われていた。教授や准教授が出席し発言するシンポジウムの資料作りや、僕が出席するわけでもない会議の下準備といった理不尽極まりないメニューが目白押しだ。ひどい時には事務処理的な機械作業も回ってくる。千枚コピー。千枚ホチキス。千枚裁断。更にその合間を縫って自分の講義の準備もしなければならないので、第三研究室から一歩も出ずに一日を過ごすことも少なくはない。講義に使う教材作りも、その講義を受ける予定の学生たちと一緒の部屋で行うという破綻ぶりなのだ。
 これに加え、論文も定期的に提出しなければならない。研究員としての本分は会議の準備やコピー地獄ではなく論文執筆の方なのだ。ただでさえ足りない時間をさらに割かなければならないということだ。
 残念ながら僕の仕事はそれだけでは終わらない。もっともっとある。数年前に僕が書いた本がベストセラーとなって以来、メディア出演や講演の依頼が一気に増えたのだ。嬉しい悲鳴ではあるのだが、それらに加えて出版社からの執筆の依頼もどしどし来るようになった。こうなるともうお手上げだ。僕があと二人くらい足りていない。
 若かりし頃に書いたあの一冊の影響で「夢路響」という響きだけは良いその名は売れ、おかげで研究員として母校の大学に勤務させてもらえるようにもなったのだが、あの一冊のせいで忙殺される日々が始まったのも事実だ。
 そして出版から数年が経った今でも尚、名が売れたことで降りかかってくる余計な仕事が僕を困らせてくるのだった。
 相沢百合子との対談。
 何が嫌かって、彼女が僕の苦手なタイプの女性だからだ。
 僕にとっての相沢氏のイメージ。それは単純に悪いことが嫌いで正しいことが好きそうということ。これは誰が聞いても「普通に善い人」だと思う。だがそんな当たり前の善良さでも、その度合いによっては避けたくなってしまう場合があるのだ。
 僕も悪いことをする人間は嫌いだ。だが正義感が軽めの人間の方が付き合いやすいということもあるのだ。その人たちはこちらの失言や失態を気にしないでいてくれるという素晴らしい性質を秘めているからだ。下手に正義感の強い人間はそれらに不寛容なところがある。思いもよらないことに引っかかりを覚えてそれを正そうとしてくる。これが厄介だ。僕の些細な欠点や欠陥を矯正しようとしてくるきらいがあの人たちにはあるのだ。
 もしかしたらそれは正しいことなのかもしれなくて、僕の至らなさがダメなだけなのかもしれない。なんせ向こうは親切心で指摘してくれたりもするのだから。だが半分はただ自分が我慢ならないだけという自分を律することをしない小学生並みの理由であることを僕は知っている。その親切ぶって自論を押し付けてくる性格を欠点や欠陥と呼んでも僕は間違いではないと思っている。しかもそれでいて真面目です正しいです真っ当ですという顔をしているのが、僕には不自然に見えてしまうのだ。他人のそれは指摘するくせに、自分の欠点や欠陥には目を瞑るのかと。というか、見えていないのかと。
 やはり真面目な人間よりも丁度よく不真面目な人間と付き合う方が気が楽である。
 この善良なる相沢氏との対談のことを考えると同時に何故か善良ではない妻のことも思い浮かんでくる。妻の不善良さを思い浮かべ、何故かそれに安心感を覚えるのだ。
 真面目な人間の地雷を踏まぬように気を付けながら相手をするよりも、困らされることが想定内の妻に困らされている方が全然気が楽なのだろう。
 体が環境に合わせて進化したのだ。
「いや、それ、ただ毒されているだけだから」
 僕のこの進化説に対し、即行、あっさりと否定してきたのは同じく妻に毒されている義弟の弦吾君だった。
「感覚が麻痺してんだよ。俺たち家族、全員」
 これを吐き捨てるように言うのではなく、そういう状況を楽しむかのように半笑いで口にするあたりがやはり毒されているのだ。
 ちなみに彼こそが「丁度よく不真面目な人間」の代表格である。
「音々さんはアナザーワールドの住人だからね」
「そう。同居人の俺たちは絶えず異世界の空気を体感しているんだ。あっちの世界の酸素濃度に慣らされちまってるってわけだ」
「度々向こうの世界に連れて行かれるからね」
「高所トレーニングは低所での持久力を強化するかもしれないけど、もしかしたら低所でこれまで通りの生活を送ることの妨げになるかもしれないだろ? 兄貴、俺たちはもうまともな人間と付き合うことが下手くそな人間になっちまっているのさ」
 やはりこれも半笑いで口にしてくる。冗談ではなく本心なのだろうが、姉による弊害をたやすく受け入れられるのがこの兄妹の強みでもある。
 僕が目当ての本を得て自宅から研究室に戻ると、彼はこの第三研究室で一人遅いランチを食べていた。大地震が発生しても何ら変わることのない研究室……との呼び声高いこのゴミ屋敷さながらの第三研究室では、ランチを食べる時もまずそれが可能なスペースを確保するところから始めなければならない。この研究室はいついかなる時も書物と資料で埋め尽くされているのだ。床は散乱したそれらで足の踏み場もないくらいだった。豪雪地帯の雪と同じだと弦吾君は言っていた。テーブルや椅子もあるにはあるのだが、除雪される前は座ることも物を置くことも出来ない。なのでまずはその辺にある紙類を足でどけて、机の上にある紙類も手で押しやって、それで始めてカップラーメンが食べられるのだ。
「やあ兄貴。我が家はまだ健在でしたかね」
 右手で割り箸を構えた弦吾君が半笑いで訊いてきた。僕が一度家に戻ると言うと、今日は姉ちゃんが一人で留守番の日だから、家はすでに火事かガス爆発かパラドックスの割れ目に飲み込まれるかして消失していると予想してきたのだ。パラドックスの割れ目に飲み込まれているのは僕らの方だよ、弦吾君。
 僕は彼の対面に座った。元々そこは僕が帰宅する前まで作業していたところなので、除雪する必要はなかった。だが向こうから押し出された本やらノートやらがこちらのテリトリーまで侵出してきていたので、少しだけこちらからも押し出してやった。こんな攻防は茶飯事だ。
「残念ながら健在だったね。それでも相変わらず音々さんは異世界だったよ。それと、悪魔が訪ねてきていたよ」
 悪魔と聞いた弦吾君は咀嚼したものを不味そうに嚥下した。
「ったく、あの悪魔、年中何も知らない姉ちゃんを連れ回して行く先々でカタストロフィを起こしやがって。あいつと比べれば聖書に登場する悪魔なんざただの意地悪なオジサンになっちまうよ」
 やれやれといった感じで顔をしかめる弦吾君はもう立派な大人だと感じた。
「でも僕は嬉しいよ。なんだかんだいってあの二人仲良いじゃないか。取材で色んなところに一緒に行けてさ。楽しそうで何よりだよ」
 あまり感情を表に出さない妻だが、僕はやはりカンナさんと一緒に何かをやっているのが楽しいのではないかと推理している。妻が嫌がらずに何年も一緒に行動していることがその証左である。
だがこれを聞いて再び不味そうにラーメンを飲み込む弦吾君だった。
「甘っ!」
「え? 弦吾君、何食ってんの?」
「ちげーよ! あんたがだよあんたが! 兄貴ねえ、そんなだからあの悪魔に甘いだの甘すぎるだの甘ちゃんだの甘っちょろいだの甘えん坊だの言われちゃうんだよ。あの悪魔はね、家で本読ませときゃ小説書ける女をわざわざ外に連れ出して大災害を引き起こそうとしている人類悪だよ。その際姉ちゃんに悪意はないけどあの悪魔にはハッキリとした邪気がある。それは間違いなくある。姉ちゃんという怪物を平和な世に解き放つためならどんな手でも尽くすイカレたテロリストがあの悪魔の正体なんだから」
 よく知ってらっしゃる。
 僕もよく知っているからだろうか、彼女からは別に悪魔と呼ばれるほどの恐ろしさは感じられない。それというのも、僕らの知るカンナさんが明け透けで正直者だからだろう。自分の悪い面も至らない面もさらけ出して生きている。善人と呼ばれる者の大半はそれを隠し通すことで善人と呼ばれているわけで、つまり彼らはみな善人ではないのだ。そればかりか隠しているものの邪悪さ次第では悪人にもなりうるのが善人と呼ばれる人たちのほとんどの正体だ。
 だがカンナさんは善良さなど一切無いうえに邪悪さを一切隠していない。絶対にマイナス値にしかならない数式のくせに、そのマイナス面を隠そうとせずさらけ出している。それなのにプラマイゼロの善人よりもなぜだか信頼できてしまうのだ。
 嘘を吐く善人よりも正直に生きる悪魔の方が信頼できるというどうしようもないこの思想。僕はやはり妻に毒されているのかもしれない。
 思えば妻と引き合わせてくれたのもカンナさんだった。
 越前閑名(えちぜんかんな)。僕と同じこの光政大学の出身で、一つ上の先輩。
 モデル並みに背が高く、そのすらりとした美脚を人を蹴ったり物をどかしたりドアを開けたりすることばかりに使っている。そういえば先程もスツールに腰かけながら相変わらず両手はジーンズのポケットの中に突っ込まれてあった。いつも両手が塞がっているので足で代用しているのだ。
 以前は腰まで届く長い黒髪だったのだが、音々さんに早く認知してもらうという理由だけである時期からずっとそれを茶色に染めている。お子様相手には視覚に訴えた方が効果的だと豪語しているのだ。その後ろ姿はお世辞じゃなくても美人なのだが、声をかけて振り向いた時の目つきの悪さや顔中から発せられる意地悪な感じがいつも人を遠ざけてしまっている。カンナさん自身も人をからかうのが好きで平穏が嫌いと公言している。いつもいつも相手を傷付ける言葉を探しているということも公言している。なので顔つきもそれに沿って出来上がってしまっているのだろう。折角の美人が台無しとはこのことだ。表情全体が常に攻撃的な形を成しているのだ。常に不機嫌で常にガラが悪い。保母さんや介護士さんとは真逆の位置にいる存在。
 先程もイライラを宿したような顔で何度も睨まれたが、あれは別に睨んでいたわけでもイライラしていたわけでもなく、ただこちらを見ていただけというプレーンの表情と感情だったわけだ。彼女を知らない人間はアレに威圧を感じてしまうのだろう。
 四年ほど前、不動出版で編集をやっていたカンナさんからうちの作家の取材を是非とも受けろと命ぜられ、引き合わされたのが今よりももっと幼い音々さんだった。その頃僕は本があたってメディアにもちょくちょく顔を出していた時期だったので、カンナさんからしてみれば、自分の操る怪物とこの新進気鋭の社会学者を会わせてみるのも一興だという腹でそうしたのだろう。悪魔の動機はいつも自分の愉悦のみなのだから。
 今となってはその不穏な動機にも感謝せざるを得ない。そのおかげで僕は音々さんと結婚することができたのだから。
 初見でまず僕が音々さんに破滅的な一目惚れをし、その感情を嗅ぎつけた悪魔が面白がって何度となく理由をつけて僕を音々さんに会わせたのだ。カンナさんからしてみればくっつかせるためにやっていたわけではなく、両者の反応が面白くてやっていたことらしいのだが。
 何度か会っているうちに、この日向音々という美しい女性が実は非常に危うい人物であることに僕は気付かされた。この人は社会の一員として生きていくことが難しい存在であると本気で憂慮したのだ。同時に何故か僕が彼女を何とかしなければという勘違いを発症させてしまった。そしてカンナさんを介さずとも僕は彼女に会いに行き、色々と要らぬ世話を焼き続けたのだ。音々さん本人にとっては本当に不要なお節介だったのかもしれない。  
 ――自分は何も問題はない。
 そう思って平然と生きているのが彼女だからだ。
 彼女の面倒を見ているうちに僕は生まれて初めての、そしてもう二度と来ないであろう想いが胸に宿ったのだ。この人と結婚したいと。
 そんな僕の暴挙を後押ししたのは、こともあろうに今は亡き彼女のご両親と彼女の弟妹の四人だった。
 僕の存在に気付いた彼女の家族は、法律上の手続きを取りつけさっさと既成事実を作ってしまおうと躍起になったのだ。
「あの時はびっくりしたよ」
 僕は弦吾君の方を見ずに、記憶の中に目を向けながら口を開いた。
「弦吾君と美琴ちゃんがいきなり僕のマンションに押しかけてきて、明らかに僕のものでも音々さんのものでもない筆跡の婚姻届を見せつけてきて、これ提出するからねって脅してきて」
 しかもよく見ると「夢路」という印鑑まですでに押されてあるではないか。何をどう手配したのか知らないが、とにかく手際が良すぎてびっくりした。
「そりゃそうするよ。だって、あんな怪物に春が訪れることなんて一生ないと思ってたんだから。お見合いしたって絶対に結婚には結びつかない百戦錬磨の怪物だぜ? それがいつの間にかこんな将来性のある男に見初められていたなんてさ。初めてその話を聞いた時は家族全員、誰一人信じなかったからね。その後本当にどこかの破滅的な怖いもの知らずが姉ちゃんと仲良くなってることを知って、全員驚天動地の呼吸不全。親父も母ちゃんもこれは一生に一度のチャンスだって言って、訴訟問題になったとしてもこの結婚だけは成立させるって気炎吐いてたよ。俺らもそれは同じ気持ちだったし」
 婚姻の強要については何ら問題は無いという弦吾君の態度だった。
「二人が婚姻届を持って僕の部屋に来てすぐに僕は音々さんの許可は取ったのかとご両親に訊きに行ったんだ。そうしたらさ、そんなものは意味の無いことだから考えなくていい、後生だから音々をもらってやってくれと二人で玄関先で土下座されてしまって……」
 弦吾君はラーメンを食う手を止めて笑った。
「見てた見てた。子は親を選べないってよく言うけど、その逆もあるんだなあってその時感じたもん」
あの時は僕も慌てて膝を突き、僕は音々さんのことを愛しているけど、音々さんはそうではないかもしれないからと、こちらも焦りながら言い募ると、そういうことは考えなくてもいいと、親とは思えない返答をしてきたことをよく覚えている。今となっては音々さんのことをあの時以上によく分かっているので、音々さんに対するそういう扱いも理解できるのだが、あの時はとても衝撃的だった。
 そして御両親の意志を確認してすぐに僕は音々さんのもとへと向かった。懇切丁寧に詳細を説明し、最後に僕は音々さんと結婚したいと思っているが、音々さんはどう思っているのかということをきちんと正直に話した。無論、そのセリフを吐く時は大いに緊張した。つまりそれは「プロポーズ」ということなのだから。
「それを提出すればよろしいのでは?」
 ぽわんとした表情であっさりと彼女は決断を下したのだった。
 そんなことを言われ、僕はすぐに気になることができ、それを慌てて確認してみた。
「音々さんは結婚するということがどういうことか分かっているのですか?」
 これに彼女は表情を変えずに即答した。
「いえ全然。前後で何か変わることがあれば仰ってください」
 不意に訪れた究極の謎かけ。
 僕は永遠とも思える一秒間、固まってしまった。
 そうして麻痺した僕の脳が弾き出した答えは、余計なものを全て排除したとてもシンプルな回答となった。
「音々さんが、僕と、一緒に暮らすことになるのですが……」
 僕はどうですかと問いかけるようにそう言った。心臓も動脈も静脈もあちこちの内臓も悲鳴を上げていた。
「それだけですか。分かりました」
 そのあまりにもあっさりとした返事に、それでも僕はかつてないほど有頂天になった。あの日、僕の目の前に天国が舞い降りてきたことを今でもよく覚えている。いや、一生忘れない。
 音々さんと結婚し、一緒に暮らすことができる。
 冴えない人生を送ってきた僕にとってそれは想像を超えた幸福なのだった。
 音々さんが僕の申し出をOKした理由について、彼女の弟妹は二つの可能性が考えられると僕に言った。
 一つは身の回りの雑事を引き受けてくれる便利な人間を求めていたため。これは今現在、実際にそうなってしまっているので否定はできない。
 もう一つは態度にこそ見せないけど、本当に僕のことを好いてくれているため。これは何の証拠もないことなので立証はできない。
 僕の考えとしては、どちらにせよ彼女が幸せならばそれでいいということ。AでもBでも彼女の欲求が満たされているのならそれでいいのだ。
 こうして結婚した僕ら夫婦だが、妻に首輪をつけるような真似は嫌だったので、僕は結婚指輪を彼女の薬指に嵌めさせるようなことはしなかった。指輪などに何の価値も見出していないような浮世離れした女性に、あたかも僕の所有物であるかような証を身に着けさせることに気が引けたのだ。そのための動機付けと言うわけではないが僕も同様に指輪をはずして過ごしている。
 式も当然挙げていない。亡くなったご両親の言葉を借りるならば、そんなものは彼女にとっては意味の無いものだからだ。結婚式とは女性の側が主役のイベントであるはずだ。その女性が必要と感じていないものを、男性側が強要する道理などあるはずもない。なので式は挙げていない。うちの両親は不審がっていたが、あちらの両親は大いに納得していた。すでに異世界に取り込まれていたのだろう。
 ただ音々さんのウェディングドレス姿は正直見たかった……。
 恐らく音々さんは着ないだろうな。着たくない、着る必要がないという理由で着ない人なのだ。寒そうとか言いそうだ。ブライダルとは高価なドレスが主役の式典なのですかと、女性全体を否定するような言葉を吐くかもしれない。
「で、兄貴、あのオバサンとはいつ対談するの?」
 ラーメンを食べ終えた義弟が何やら薄笑いを浮かべながら質問してきた。あのオバサンとは相沢百合子のことであろう。
「講演会の後日。だからスケジュールがきっつきつだよ」
「断ればよかったじゃん」
「角が立つ、という面倒くさい現象が人間社会にはあるのさ、弦吾君」
 これが異世界ならばむしろそんな面倒はないというのに。なぜ常識的な世界の方が面倒になるのだろう。
 すると弦吾君が呆れた表情を浮かべて首を左右に振ってきた。
「そこだよ兄貴の弱点は。普通なら断っても差し支えないことを、兄貴は相手のことを気にしすぎて引き受けちゃうんだから。甘っあま。甘王だよ兄貴は」
 あまおう。福岡のヒロイン。でかい苺。
「チョコとかゼリーとかに練り込められちゃうんですかね」
「大体、何でそのオバサンは兄貴と対談したがってるんだよ。他にも色々いる中でどうしてこんなぺーぺーの若造なんかを」
「なんか若い男性の意見を聞いてみたくなったってことらしいよ。もしあちらが若くないベテランをお望みならうちの斎藤准教授を差し出してもいいんですけどね」
「だめだめ。准教授はお忙しいから。ホント忙しすぎて、部下に色々お仕事を押し付けないと間に合わないくらいなんだから」
 斎藤准教授は教授から回された仕事を右から左へ、上から下へ、そっくりそのまま僕たち罪なき研究員にスルーパスしてくる名選手である。これは自惚れかもしれないが、僕の本が売れていることがどうやら彼の感情に少なからず影響しているらしい。
「多忙。そして絶望。おかげで甘王はもうヘタしか残ってませんよ」
 僕は斎藤准教授がいる前では決して言えない愚痴をこぼした。
「いいじゃん。家帰って愛妻の顔見りゃ再生するんでしょ」
「それは……否定しかねる」
「でも次の日、せっかく実ったそのいちごを全部あの初老メガネ括弧斎藤准教授括弧綴じ、に食い荒らされちゃうんだろ?」
「いやあ、僕はその初老メガネという人物を知らないし……」
「いや、だから括弧付けて密かに正体を明かしたじゃんか。斎藤准教授だよ斎藤准教授」
「その斎藤准教授さんとの無駄な諍いを避けるという意味で、僕が全部やるという選択肢が結局いちばん円滑に物事が進むんだよ」
「だーかーら甘いって言ってんの。誰かに何か仕事を頼まれたとしても一から十まできっちり引き受けてないでさ、適当な理由つけて断っちまえばいいんだよ。あとはうまーく誤魔化せばいいんだから。うまーくね。そういう姑息な知恵を数多く身につけた者だけが勝者になる世の中なんだから」
 それはカンナさんが考えそうなことだ。
「でも相沢さんとの対談の話を持ってきたのは教授だからね。僕には断ることができない依頼だったってわけさ」
 どうやら対談を組んだ雑誌社の編集長とうちの教授が古い知り合いなのらしい。
「女性の抱える問題について若い男性と話し合ってみたいという向こうサイドの要望があったらしいよ。だったら顔の売れている人間の方が話題性出るでしょっていうことで僕に話が来たらしいんだ」
 へえと、何やら怪しむ顔を見せる弦吾君。
「そのオバサン何歳だっけ?」
「ん? 四十歳ってハナシだよ。でももっと若く見えるよね。メイクもうまそうだし」
「それ悪口だから」
「え?」
「あーあ。兄貴もだいぶ姉ちゃんみたいな慇懃無礼なこと言うようになってきちゃったなあ。夫婦って似るもんだなあ」
 これにはめちゃくちゃへこんだ。弦吾君の冗談だと思いたかった。
「たしかそのオバサン、シングルマザーだったよね?」
「ああ、うん。自身の体験談が著書の随所に入り込んでいるらしいよ」
「かあ。何を間の抜けたこと言ってんだかこの甘王は。この甘王のヘタは」
 言いながら頭を掻きむしる弦吾君。
「え? 何? 確かに甘王のヘタとは僕のことだけど」
「兄貴さ、教授連中にずっと結婚してること報告してないんだろ?」
 今ここに教授連中がいるわけでもないのに、これには大いに慌てさせられた。
「弦吾君! 駄目! それ言っちゃ!」
 焦った僕は身振り手振りで相手の口を閉ざそうと試みた。
「いいって! 言わないから! あのじいさんどもが全員退官するか死ぬかするまでの我慢なんだろ! それに俺はむしろ英断だと思ってるし!」
 焦った僕を見て向こうも慌てた。
 上司に結婚したことを報告していない。これは普通の会社員ならば御法度となるのだろうか。はたまたパワハラやプライバシー侵害に抵触することとして免除されるのだろうか。
 とりあえずうちの教授は絶対にそういうことを知りたがるし、婚姻に神性さを感じる世代でもあるので、知ったら絶対にお祝いしようとしてくる。
「奥さんと会わせろという流れになるだろうな。もしそうなったらきっと……」
「僕はこの大学にはいられなくなるだろうね」
 妻もこの光政大学出身である。そして数々の伝説を残してきてもいる。彼女が光政大学の教授陣にそれぞれ苦い思い出をプレゼントしたことを僕は知っているのだ。
 我が社会学部の教授は幸いにもその伝説を知らない平和な人間の一人らしいのだが、音々さんと顔を合わせるとなると、絶対に平和とは程遠い会食の席となるのだろう。破壊神が僕の教授の前で大暴れするわけだ。想像したくない。
「ずっと指輪はつけてないし、兄貴は本当に女っ気がなさそうだから、大人しくしていたらバレることはないと思うよ。そもそも兄貴がメディアに頻繁に出てた頃は姉ちゃんと結婚する前のことだったわけでしょ? てことは、世の中的にも兄貴は未婚のままなんだよね」
 弦吾君のことも親戚の子ということで通している。大学に通うために上京してきて僕の家で暮らしているという設定だ。まさか義理の弟だとは思われていないはずだ。
「つまり、兄貴は狙い目だってことだ。結婚を望む女性からしてみれば」
 弦吾君が顔を近づけてきてまでそんなことを言ってきた。
「いやいや。そんなことあるわけ……」
「黙れ甘王! 何冊も本を出している大金持ち! しかもまだ二十代! 確かに冴えない顔してるけど目を凝らして良く見てみると全然悪くない! 朴訥! 支配下に置けそうな安定の弱々しさ! 安定の甘王っぷり! 残されたヘタ! 以上! 兄貴がある種の女性から狙われる否定しようのない理由の数々でした! 異論は認めないしあるはずもないので言わなくて結構!」
 義弟はぴしゃりと断じた。
 僕は先ほどから弦吾君の主張が一つのことに集中しているように感じていた。
「ちょっと待って。弦吾君、まさか相沢さんが……」
「まさか、じゃねーっつうの! 確定だよ確定! 子持ちのシングルマザーが富と名声手にしてんだからあとは男だろ! 若すぎず、金も持ってて、かつ世間から良く見られている好人物。ハイ決まり」
 ここいらで僕は気が付いた。
「ああ、そうか。弦吾君、僕をからかって楽しんでるんだ」
 途中から弦吾君の顔から笑みがこぼれ出したのを僕は見逃さなかった。
「そういうところはカンナさんそっくりだな。僕は騙されやすいんだから詐欺にかけないでくれよ」
 すると弦吾君はニヤニヤしながらこんなことを言ってきた。
「正直に言うと、半分はからかい。そして半分は俺の願望。もし兄貴が姉ちゃん以外の人とそういう関係になったら、あの夢路音々は一体どんな反応を見せるのか、社会学者の卵として非常に興味がありましてね」
 どうやらこの企みこそが先ほどからの意地悪い笑みの根源だったようだ。
「兄貴が浮気したり、他の女の人と仲良くなったりしたら姉ちゃんはどうするのか……。想像がつくことよりも全然想像できないことの方がワクワクするじゃん。旦那の浮気に際し一体あの怪物はどういう反応を示すのか。想像の壁の向こう側。その答えをどうしても知りたくて」
 それで僕と相沢さんがくっつくことを願っていたわけだ。
「残念ながら弦吾君。そんなことには絶対にならない。僕は音々さん以外の女性と一緒になることがないのは、気持ちの問題ではなくそれが無理な人間だから」
「まあ、それはそれで可哀相な人だよね」
今度ははっきりとした同情が寄せられた。
「でも見てみたいなあ。勘違いでもいいから、兄貴が他の女性とイチャついているところに入ってくる姉ちゃん」
 やけに楽しげに語る弦吾君は、やはり冗談で口にしているわけではないのだろう。本心からの願望なのだ。
 その後僕は雑念を引きずったまま『未来への不安』を再読した。やはり著者は真面目な女性だと気付かされた。弦吾君の予想する邪な感情など一切無い。本当に困り果てている世の中の女性のために何かをしてやりたいという強いメッセージを感じた。こういう女性は男性から見ても素敵だと思う。
 ただし、やはり僕にとっては苦手な人種だ。もう一度読んでみてそれがよく分かった。僕は真面目な性質を「気難しい」と訳してしまうタイプの人間なのだ。真面目な人間、真っ直ぐな人間に対し僕は必ず後ろめたさみたいなものを感じてしまう。何故なら自分がそうではないからだ。不真面目な点、はみ出した経験がいくつもあるからだろう。それらが積み重なって罪の意識を植え付け、真っ当な人間に対する苦手意識として萌芽してしまうのだ。
 付き合うのなら、同じく罪を犯し続けてきた人間の方が気楽でいい。
 僕は罪を犯し続けてきた人間にそのことを打ち明けてみた。ちょうどその人物は研究室に備え付けられているパソコンで課題に取り組んでいるところだった。罪人の名は弦吾といった。
「だったら、実際にオバサンと会った時に実はそんなにお堅い人間じゃなくて、万事に亘って真面目ではない性格だったら、兄貴、反動で好きになっちゃうんじゃない?」
 さっきまで魂の抜けた顔でキーボードを打っていたはずの男が、何故か自分の願望に触れることに関しては口角を持ち上げて饒舌になる不思議。
「きっと僕も音々さんと一緒なんだろうね」
 僕が何も考えずに思ったことを吐き出すと、弦吾君が椅子の向きを変えてこちらを見てきた。
「何が?」
「今弦吾君が口にしたような状況に直面した時、自分はどうなってしまうのか。それが全然分からない。分からないのは、きっと経験値が圧倒的に少ないからなんだ。無知なんだよ。だからこそ様々な社会問題に対して独自の視点が持てるのかもしれない」
 僕なりの客観視ということだ。
「経験が無いということはそこに新しい視点があるということ、か。よし、その言葉いただき!」
 何かを勢いよく打ち込む弦吾君。こらこら。
「それ何の課題?」
「『乳幼児の発達教育の基礎』」
 経験が無いって、君。
「兄貴は課題終わった?」
「課題じゃないけど、頭の中で相沢さんの主張をまとめることならできたよ。これやっておかないと、滅茶苦茶怒られそうなイメージがあるから」
 わたくしの本、読んでらっしゃらないのですか?
 そんな目に遭わないように石橋はひび割れするくらい叩いて渡る。
「よっしゃ。じゃあ俺が聞いてやる。『未来への不安』の概要をまとめて口頭で言ってみ。俺読んだことないから実験台としては合格でしょ」
「ああ、いいね。やろう」
 こうして僕は数分間だけ女性問題研究家になった。
「相沢さんの主張その一。女性とは妊娠と出産を考慮に入れなければならない人生を歩まされる存在であること。これは単純に、いつかきっと動けなくなる期間がやってきますよということ。それも年単位の長期間」
 盲点なのか常識なのか分からなくなる微妙なラインの現実だ。弦吾君はこれをただじいっと聞いていた。なんだか不気味だ。
「女性たちが動けなくなる期間はイレギュラーでやってくる。これがまた厄介なんだ。いくら緻密な人生設計を立てたところで、離脱する時期を予想することなんてできっこないんだから。子供を生みたいって思った時がそれだとしても、その生みたいと思う時がいつ頃になるかなんて予想できないでしょ。これは社会的にみたら相当なハンデだよ。こと労働に関して言えば邪魔でしかない。いくら産休と育休が法律で保障されているといっても、企業側から厄介者扱いされることには変わりない。職場に復帰できたとしてもブランクがある限りこれまで通りにはきっといかない。妊娠と出産というイベントがいつかある限り、女性はどうしても働くことが不利になってしまうんだ」
「いやいや、離脱される側の同僚たちの方が気の毒でしょ」
 と、ここで弦吾君がわざとらしい笑みを浮かべて反論してきた。
 さては弦吾君、わざと相沢さんの主張とは反対の意見を言っていくつもりだな。わざと。
 僕としては反対意見は大歓迎だ。それでこそ議論は深まるのだから。
「続けてよろしいですか、相沢先生?」
「あ、僕? 相沢さん役? どうぞどうぞ、聞きましょう」
「女性はイレギュラーで長期間休むことになるという主張ですが、これで一番困るのは元居た職場の同僚たちなんじゃないですかね。今の時代、大抵は十人でやる仕事を五人くらいでやってるところがほとんどでしょ。そうじゃないとブラック企業なんて言葉が横行しませんよ。ギリギリの労働力で働いてる人たちがほとんどじゃないですか。でも妊娠による長期休暇の欠員を、その間補充してくれる企業なんてほとんどないでしょう。予算で人件費がきっちり決められている以上、誰かが辞めでもしない限り人の数を増やすことなんてできない。産休を法律で保障しているくせに、その際に生じる労働力の不足は現場の人間でなんとかしてくれという無理難題が発生するわけです。もちろん妊娠を理由に休暇を取った女性をクビにすることを法律は許していないので、ずっと人員の数は変えられません。そしてそのしわ寄せを食い続ける同僚の皆様方は過労死するか、はらいせにその赤ちゃんを誘拐するかしかなくなるということです」
 僕はこの意見に対し、相沢氏の著書に書かれてある内容だけで反論しようと試みた。
「でも労働と出産は切り離して考えるべきだよ。どんな状況下でも女性は子供を生むということを優先しなくてはならないし、周りの人たちもそれを優先させなくてはならないんだ。子供は国の未来そのものだからね。雇用機会の均等は確保したまま、出産や育児に関しては周囲の人たちがフォローしながらそちらを優先させてあげる。そうしないとこの国に未来はないんだよ」
「だからって別の誰かがその分無理をしなくちゃならなくなるってのは随分な不条理じゃないですか。妊娠による長期間の離脱なんてものが永遠にやってこない男性諸君、あるいはその可能性のない不遇な女性。ずっと真面目に仕事し続けているその人たちが産休をとる女性にノルマを増やされて過労死する逃げ場のない女性優遇社会が正しいとは僕は思えないなあ。もしそのせいで過労死する人、体を壊してしまう人が続出してその問題がピックアップされてしまったら、今度はきっと女性優遇の在り方が社会問題にされてしまうと思うんですけど」
 嫌味が饒舌になる人間は大概性格が捻じれている。演技ではないのか君は。
「なるほど、弦吾君、いいよ」
「え? いいの? 俺悪魔になってるつもりなんだけど」
「いや、対談なんてのは結局、褒め合うだけの予定調和になりがちなんだ。僕も何度か経験がある。だからこそ議論を深める意味で反対意見が必要になるんだ。ここで弦吾君が口にした反論は本番でも使ってみようかな」
「酔狂だな」
「真面目って言ってよ。ええと過労死、過労死……」
「嫁に毒されてやがる」
 僕は構わず話を進めた。
「相沢さんの主張その二。日本の歪んだ女性観」
「ああ、たしかに歪んでるなあ」
「まだ解説してません」
 心当たりがあるのだろうか。
「この国が古くから持つ厄介な先入観の一つ。それが女性に対するお決まりの位置づけ。女性だからこうすべき、女性だからこうしないべき。きっとそんなのがいっぱいあるんだ。いわば女性の役目だと思われていること」
代表的なのが家事と育児だ。
「普段の振舞いなんかも女性にだけ求められるものがあるよね。おしとやかさだとか」
「ジェンダーの問題なんて男性にだってあるだろ。毎度毎度女性だけ割に合わない論調になるってのはどうよ」
 嫌味な反論だが的を得ている。弦吾君のこのわざとらしい反論を聞いていて思ったことだが、この著書には必要な視点がいくつか欠落しているようだ。
「……まあそうなんだけどさ、それでも女性だけが不遇なことってあると思うんだ。例えば女性だけが無暗矢鱈(やたら)に求められるのが結婚、そしてその先にある出産だ。結婚していない女性は白い目で見られる。適齢期を迎えた女性は延々と結婚することを求められるんだ。この国ではそんな女性観が長年続いていたからね。その風潮が世の中全体に蔓延してしまっている」
女性は常に急かされて生きているのだ。結婚しなきゃ結婚しなきゃと、強迫観念みたいに。
「どうして女性だけが不利みたいな言い方するんですかね」
「なんと?」
「だって、逆に女性だから許されてることもあるでしょうし、男性だから許されないこともあるでしょう。なんでその中で女性であることが不利な点だけ挙げ連ねて被害者面するのかなっていつも思うんですよ」
「ほう、そうきましたか」
 この視点はたしかに無くてはならない。この社会学者の卵は意外と優秀だ。カエルの卵ではなかったのか。
「力仕事なんかそうですよね。女性は免除で男性は強制。あと下水管理やらゴミ処理なんかの誰もやりたがらない汚い仕事。働いているのは男性オンリーです。女性なんか一人もいません。汚い仕事はハナから免除されてるんですよ。理由は永遠に不明です。男女平等はどこ行ったんですかね? あと、あれもそうですよね。専業主婦。専業主婦はすでにして「専業主婦」という市民権を得ているくせに、夫の字の専業主夫はいまだに白い目で見られる。就業してなくても何も言われないのは女性だけなんです。結婚さえしてりゃ無職であることが許されているんですよ。こんなだから専業主婦狙いの怠惰な女性が、さっさとリタイアしたいからと婚活市場に大量参戦する事態にもなるんですよ。婚活市場のデータをご存じないですか? シャレにならないくらいいるんですよ。働きたくない専業主婦狙いの婚活女性が。あんなのは女性が仕事をしないことを日本人が無意識に認めている、許しているからできることなんです」
 これは見事なご指摘である。
 専業主婦になりたくて婚活している女性は本当に多いのだ。これは弦吾君の勝手な思い込みなんかではなく、どのデータを参照にしても提出される厳然たる事実である。そんなムーブメントが可能なのは、働かない既婚女性を社会全体が認めているという謎の前提が依然として存在しているからなのだ。そして、それらは逆に男性なら許されないことでもあるわけだ。その自明のデータに対し誰も何も違和を感じていないとすれば、その男性なら許されないことを女性に対しては社会全体で無意識に認めてしまっているということに他ならない。
「それなら他にもありそうだね。近年問題になっている各種ハラスメントにしても、男性と女性では同じ状況下であっても加害者になってしまう条件の難易度がまるで違う。男性は簡単に加害者認定されて、被害者認定されるのは難しくなっている。逆に女性は加害者になることは滅多に無く、被害者になることは男性よりも難しくない。男性だから許されない点と女性だから許されている点がそこに混在しているんだろうね」
 その点をもっと男女で平等に論じるべきであるということだ。
「自分がかわいいだけの女の主張なんてそんなもんですよ。一方向から見た一辺倒な意見しかないんです。上司の愚痴を垂れる部下と同じです。上司からすればその部下は本当に使えない人材かもしれないじゃないですか。けどその無能の部下は上司の悪い所だけを並べ立てて酒をあおる。自分の無能っぷりは棚に上げておいて、当人がいないところであいつが悪いこいつが悪いって。まるで欠席裁判ですよ。そうやってみんな平等じゃないところで正しさを主張してるんですよ。おかげさまでその部下は全然成長しない。ずっと使えない人材」
「弦吾君、完全に瞳孔が開いてるよ」
「おやいつの間に」
 我を失っている男がここに一人。それでも核心は突いていると思った。特に「平等じゃないところで正しさを主張する」という部分。文句を垂れる自分勝手なだけの人間とはまさにそういう生き物なのだろうと思わせる指摘だ。
「弦吾君、弦吾君、女性に何か恨みでもあるの?」
「一切無い。一切無いのにこんなにスラスラと彼女らを貶める言葉が口から流れ出てくる自分に、今驚いている。不思議な感覚だ。これがゾーンってやつか」
 対女性の姿勢の中で無我の境地を切り開いてしまった弦吾氏。何と面倒な義弟なのだろう。
「では続いて、相沢さんの主張その三」
 僕は一つ咳払いをしてから話を進めた。
「妻として、母として救いの無い時代だということ。昔は良かったんだよ。なんせ専業主婦と呼ばれる奥様方が大勢いたからね。それが可能な時代だった。でももう専業主婦なんて絶滅危惧種。家事と育児をこなしつつ、空いた時間でパートタイムに出かける。みんなそう。そうでもしないと収支が危うくなるからね。夫の稼ぎだけでどうにかなる時代はとっくに終わったんだ。妻にも労働力となってもらって、お金を稼いできてくれないと生活を維持できない。子供がいるならなおのこと夫の収入だけに頼ることが難しくなってくる。こうしてほとんどの奥さん、お母さんは家事と育児と仕事という過重労働の三足のわらじを履いて喘いでいる状態になってしまっているんだ。ワンオペ育児ってやつかな。共働きの夫婦でも、夫の意識が低いと妻が全てを押し付けられてしまうんだ。家事も育児も押し付けられて仕事にも行かなければならない。これは先ほどの求められる女性像の問題と絡んでくる。家事も育児も女性がやるものだという偏見が無論男性側にあるのだろうし、女性側にもある場合があるんだ。自分で家事も育児も自分の仕事だと思い込む。そうして体も心も疲れ果ててボロボロになっていく。現にそういう女性がたくさんいるんだから、これは中々問題だと思うよ」
 これにはどう反論するのだろうかと、僕は少々期待して身構えてしまった。
「予期できたことなんだから我慢すれば?」
「なんと?」
「収入少ないから専業主婦は無理だって? いやいや、旦那の収入知らずに結婚したわけじゃないでしょ? 確信犯ですよね? 自分も働かなきゃいけないこと知ってましたよね? 旦那が家事も育児も手伝わない男だと知ってて結婚したんですよね? 何一つ正体を明かさない旦那と結婚しておいて文句を言う女もアウトだし、全部知った上で結婚して後から文句を言う女もアウトなんじゃないでしょうかね? いやあ、僕はまともな人と会話したいなあ」
 瞳孔が全開どころか、一切まばたきもしない。これは出国できないレベルの異常さだ。
「まあまあ。それで、先程説明したワンオペ育児。この最たるものがシングルマザーなんだ。年々急増し、いつの間にか市民権を得たこの女性の一部の総称。もう全部一人でやるしかない人たち。お金も無いし、子供と一緒にいる時間も持てない。そんな人達がいっぱいいるんだ。それなのに今の日本は女性が一人でも子供を育てられるようにはできていないと、相沢さんは嘆いている。待機児童問題しかり、社会政策としてシングルマザーを救う措置が機能していないんだ。少なくとも効果的ではない。シングルマザーが大勢いることは事実なのだから、常時ワンオペの彼女たちを救う手だてを早急に講じる必要があると強く訴えているよ」
「シングルマザーたちの離婚原因が何なのかを突き止めて、それを彼女たちに突きつけてやりましょう」
 ゾーンに入っている彼は間髪入れずに反論を見つけてくる。
「たとえ旦那の浮気が原因であっても、そんな男を選んだそいつの見る目のなさを追及すれば、きっと自己正当化の言い訳しか出てこなくなるでしょう。女性側の判断で選択したことでもあるはずなのに、どうしてその責任はいつもいつも同情に流されてなかったことになるのでしょう」
 この嫌味、もとい視点も面白い。
 これは浮気するような男を選んだことへの反省と改善を促す視点だ。男性側の姿勢の変化に運命を委ねるのではなく、女性側の能力の向上によって災禍を避けるという新説。議論の余地も価値も十分にある。
「旦那の浮気が原因ではない場合、一人で育てるのなんて無理だと分かっていながら子供を引き取った理由を突きつけてやって、自分で決めて別れたくせに助けを求めることがいかに筋違いの要求なのか分からせてやりましょう。愛してるからとか、自分が守らなきゃとかいって、自分の都合を子供以上に優先させたことを全て子供への愛に転嫁するという離れ業を見ることができます」
「弦吾君、もう卒論の方向は決まったんじゃないか。女性主張ばかりの世の中に一石を投じるカエル。これでいけるよ」
 僕もからかい半分で自分の願望を述べてみた。
「無理。卒論を評議する教授陣の中に女性が混じっているのをお忘れなく。俺、ちょっと分かってきたんだ。俺がゾーンに入ってるのはどうしてか。それは多分、この場には男しかいないからなんだ」
「はあ。そういうこと」
 妙に納得してしまった。
「うん。女性の目と耳があるところでは絶対こんな話できないだろ。社会全体で空気感として御法度になっちまってるんだよ。地球全体が女性優先車両。こんな話ができるのは私的な空間で野郎のみ。この条件でしかゾーンにはならない。さっきまでの俺の発言が世間様の目のあるところで公表されでもしたら俺は社会的に抹殺されてしまうんだ」
「だから今、抑圧されていたものが正しい条件下で吹き出てきているということか」
「少なくともこの空気感が蔓延している限り、今の社会なんか全然男女平等じゃないってことは分かるよ。まともな議論すらできないってことだからね」
 それはあまりにも呆気ないが圧倒的結論だった。『未来への不安』を三時間かけて読破するより、カエルのその一声の方が真実を穿っていると思えるほどの。
「姉ちゃんが羨ましいと本気で思うね。相手が誰であろうと、誰が聞いていようと本音しか言わないだろ。常時ゾーン状態なんだ。容赦なく、誰に対しても平等だしさ」
「それはそれで社会性が無いという欠点として認知されてしまうんだよ。実際そうだから一部の人間としか交流を持っていないわけだし」
「もしかしたら、俺がゾーン状態の時に口に出した言葉は姉ちゃんが『未来への不安』を読んだ時に普通に思っていた感想なのかもしれないね」
「いや、残念ながらゾーン状態の弦吾君でさえその境地に至れていないよ」
「おや、どうして」
「音々さんが言うには、『未来への不安』は女性総体に対する罵詈雑言であると」
 ここで弦吾君が一気に破顔し爆笑に至った。
「あー、ムリムリ。俺なんかまだまだだな」
「そう。君はまだまだまともな人間なんだ。異世界の住人になるにはもう一億光年はやい」
「それはそうと、兄貴完璧だったじゃん。オバサンの主張の完コピ。もう相思相愛。姉ちゃんにうまいこと密告してやるからさ、付き合っちゃえよ」
「それはないって! まあ、ちゃんとトレースできていたならそれでいいんだ」
「うん、俺その本読んだことないんだけどね」
「え! じゃあ完コピなんて分かるわけないじゃん! 言ってよ!」
「言ったよ」
「あ、言ったか」
 とりあえず弦吾君がゾーン状態で口にした反論の数々はぜひとも対談の時に僕の口から相沢さんにお伝えしようかと思う。その反論を相沢さんがきれいに制することできたのなら、女性問題に対する彼女の考え方も今よりずっと世間に認めてもらうことができるだろうし、そうなることで初めて対談は成功といえるのだろう。
 そしてこの後、僕はたっぷり働いてから帰宅した。括弧の中の准教授のせいで。
「にいさん、夫婦は助け合うものだって、にいさんの本に書いてあったわ」
 テーブルの僕の席の前にギョーザが山盛りになって積まれていた。
 積み上げたのは少し不機嫌そうな美琴ちゃんだった。制服にエプロンという慌ただしい格好をし、だらしなく頬杖を突いていつもの席に座っている。食事はもう済んでいるようだ。
「書いてないよ。ご飯もお味噌汁もサラダも一人前なのに、ギョーザの量だけ不自然だね」
 僕はツッコまないのも妙かと思い、触れておく程度に触れておいた。
 少し離れたソファの上ではすでに食事を終えた弦吾君が片手でオヒゲを弄びながらこちらの様子を窺っていた。オヒゲはとても嫌がっていた。
「あなたの愛妻が私の傑作をことごとくお残ししたのよ。その堆く積まれたギョーザは奥様から旦那様への愛の無いプレゼントね」
 こちらも見ずに吐き捨ててくる美琴ちゃん。
 昼間お菓子を食べすぎてこんなことになったのだろう。予想通りの未来の到来。
「音々さんは?」
「部屋戻って本読んでる。またなんか書くって」
「いただきます」
「いただきなさい」
 妻の残飯処理はいつものことだ。気にせずいただく。
「あ、てか今日悪魔がうちにやってきたでしょ!」
「うん」
 咀嚼している最中だったので片言。
「道理で、お姉ちゃん書く気満々だったわけだ。これでまた取材だなんだと奔走して、結果知らない誰かが不幸になるのよ」
「うん」
 うんとしか言えない。
「にいさんが甘王だからあの悪魔にお姉ちゃんを好き勝手されちゃうのよ」
「うん、うん」
「ねえ、私けっこう真面目にハナシしてるんだけど?」
 キッと睨まれてしまったのだが、ノルマを処理している最中なのでやはりうんとしか言えない。兄に助けを求めてチラ見する。
 弦吾君はそれに反応してくれた。
「兄貴、さっき美琴から面白い話聞いたんだけど、兄貴も知っておいた方がいいよ」
 謎めいた発言。だが気になるのはその薄笑いだ。悪巧みの分かりやすい合図。
 僕は慌ててギョーザを味噌汁で流し込んだ。
「別に面白い話なんかしてないよ」
 美琴ちゃんがツーンとして言う。
「それが、俺と兄貴と姉ちゃんにとっては面白い話かもしれないのさ」
「何のこと?」
 僕は僅かな警戒心と共に美琴ちゃんに真意を問うた。あの兄の薄笑いは看過できない。
「さっき、よくテレビに出てるあの人のことお兄ちゃんと話してて。ほら、オバサン」
 ピーンとくるものがあった。
「相沢百合子?」
「そう! オバサン!」
 相沢百合子と言ってるのに。
「相沢百合子がどうかしたの?」
「兄貴、あのオバサンってシングルマザーなんだって」
 またぞろ弦吾くんの何かを面白がる声が飛んできた。
「それは知ってるよ」
「子供がいるってことだよ」
「知ってるって」
「うちの学校にいるのよ。そのオバサンの娘が」
 美琴ちゃんのその呑気な声が、何故か僕の心臓を蹴りつけた。
「え? 相沢百合子の娘?」
 そこに僕は多いなる破滅の予感を感じた。一体何故だ。
「そ。同級生よ。てか普通に仲良いし」
 美琴ちゃんと仲が良い……。
「兄貴はその人と近々対談する予定なんだよ」
「え! そうなの! それは奇遇ね!」
「奇遇……」
 僕はどうしてか、この時、美琴ちゃんの学校で近々行われるであろう三者面談のことを思い出していた。そこに赴くであろうあの人物のことも……。
 不意に僕の目に映る、意地の悪い義弟の消えない薄笑み。
そして弄ばれる猫。
 さっきからギョーザの山が減らないのは、食事が喉を通らないから。嫌な予感しかしないから。
 多分、この嫌な予感は当たっている。
 異世界の空気を読むことに関しては随分とうまくなったのだから……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?