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破壊の女神⑥

 6

 進路相談室に入ると、フォーマルスーツを着込んだネズミのような顔のオバサンが作り笑いであることが一目瞭然の笑顔で出迎えてくれた。
 コイツとは話が合わない。一瞬で私はそれを悟った。
 笑顔を見せると人とのコミュニケーションがスムーズになるというのは本当だろう。ただし極端に作為的な笑顔の場合は話が別だ。作為的であると私が判断してしまうほどに演技の度合いが強い笑顔、と言い換えてもいい。他者とコミュニケーションを図るときに、相手を嫌な気持ちにさせないための礼儀として見せる笑顔ならば全然許せるし、むしろオススメしたいくらいだ。アレを他者への気遣いと呼ぶのだ。だが極端に作為的な笑顔は気遣いなどではなくただの印象操作なのだ。
 この田口とかいうネズ公は気遣いではなく、確実に戦略として使ってきている。コイツの嘘っぱちの笑顔は明らかな印象操作だ。どうやらこれも教師の仕事の一つであるらしい。
「どうも初めまして。わたくし、美琴ちゃんの担任を務めさせていただいております田口と申します」
 すでに椅子から立ち上がっていたネズ公は貼り付いた笑顔で何度か会釈してきた。音々が会釈をお返しするはずもなく、私もすっとぼけてシカトしていたら、私と音々に挟まれる形で立っていた美琴ちゃんが両手を駆使してそれぞれの背中を前に倒そうとしてきた。JKらしからぬものすごい膂力(りょりょく)を感じた。
「美琴、痛いですよ。背中を前に倒そうとしないでください」
 野暮な姉からなんとも的確な状況説明が入った。その瞬間、背中を押す妹の手がグーに変わるのを私は見た。
 そんなコメディが繰り広げられる中、平然とネズミが口を開いた。
「お姉さまも、付添いの御親戚の方も、お忙しい中わざわざ御足労なさってありがとうございます。さ、どうぞお座りになってください」
 私たちの目の前に椅子が三つ並んでいた。長机を挟んだ向こう側にネズミの席があった。
 このネズミは前担任からすでに音々の危険性を聞き及んでいるということだった。今しがたの異様なやり取りの際にもその持ち前の作り笑顔が乱されることがなかったのは、すでにこの程度の異様や異変を覚悟していたからにほかならないのだろう。
 百戦錬磨の学校教員であるこの私なら、どんなイカれた保護者が来ようとも取り成してみせる。
 そんな自信が見え隠れしている。
 しかし彼女は異世界を知らない。このお上品な貴族専門の進学校という狭い範囲内で人間の全てを把握したような顔をするのは命取りである。
 私たち三人は美琴ちゃんを真ん中にして席に着いた。それを確認してから向こう側のネズミも座った。
「この方もモンスターペアレンツですか?」
 突如として音々が口を開いた。平手で田口教員を指し示し、真っ直ぐな目を美琴ちゃんに向けている。
 あまりにも見事な不意打ちに自信満々のはずの田口教員も目を丸くして驚いてしまっていた。私は何とか溢れ出てくる笑みを抑え込みながら、心の中で爆笑し、同時に喝采を送っていた。
 いいぞ、もっとやれ!
 悲運の妹は冷静に姉を睨みつけながら、その話は終わったでしょと、押し殺すような声で一言。これまた絶妙な切り上げ方を見せてくれたのだ。
 音々はというと、そうなのですかと不満気な言葉を残し、お馴染みの無表情を貫いた。
 なんとか作り笑顔を取り戻したネズミは先ほど逸した何かを挽回しようとしてきた。
「なんだかずいぶん、面白そうなことをお話しされていたようですね。ここに入ってくるまで」
 このように、当たり障りのないやり方で毒にも薬にもならない会話を継続しようとしてくるネズミだった。
「はい、まあ、お姉ちゃんとは普段から色んなことをおしゃべりするので」
 こちらはこちらで会話を継続する意思の無い者の返しだと私は直感した。
「お姉さまも、こんな可愛らしくて楽しそうな妹さんがいて、羨ましい限りですね」
 あろうことか、ニコニコ顔のこのネズミはノンレム睡眠中の獅子をわざわざ揺り起こそうとしてきたのだ。これを身の程知らずと呼ぶ。美琴ちゃんの愛想笑いが一気に崩れた。
「私に仰ったのですか?」
 真っ直ぐに訊き返す音々。
「え? ええ、お姉さまに……」
「私が聞かなければならない話だったのですか?」
「うーんと、聞いてませんでしたか?」
「はい何も。私が聞かなければならない話であるのなら、これからそのようにします」
 まず強烈なジャブが入った。
 音々としてはただ本当に聞いていなかっただけなのだろう。別に嫌味でも嫌がらせでもなんでもない。
 それでもネズミは少々崩れた微笑を浮かべるしかなくなってしまった。
「お姉ちゃんは忙しいので、早く話をと……」
 妹の投げやりなフォロー。何をどう取り繕っても無駄だと思っている悲しげな顔。
「……そうですか、それでは早速本題に入りましょう」
 一応の笑顔を継続したまま、ネズミは資料を机の上に並べた。
「まず美琴ちゃんが光政大学を志望しているということは御家族では……」
 共有しているのかと、順繰りに私と音々に目で訊ねてきた。
「私は何も知りません。響さんは御存知かと」
 音々が何の引け目もなく知らんと言った。ネズミのにこやかな口許から「知らない……」という驚愕の言葉が漏れ出た。
「あ、えーと、響さんというのは、お姉ちゃんの旦那さんです」
 先生の驚愕を無かったことにしたい美琴ちゃんは間髪入れずに説明を入れ込む。
「あ、ああ。はい。御結婚なさっておられるんですものね」
 既婚であることが信じられないとばかりに、わざわざその事実を口に出してしまっているあたり。音々に対する強い偏見と不信感が表れている。だがそれは無理もないこと。むしろ正当な感情の発露である。
「今日も本当なら私の義兄である響さんに来てもらう予定でした。でもちょっとお仕事が入って来れなくなってしまったんです。私が光政大学を志望していることは義兄と兄には話しています」
 美琴ちゃんが弁解した。それでもネズミの疑念は消えていない。
「お姉さまには?」
「忙しいので、迷惑かと」
 するとネズミは改まって日向さん、と声をかけた。
「お姉さまを想う気持ちは分かりますけど、やはり進路のことを相談していないのはどうかと思いますよ。お姉さまだって知っておきたいでしょうし、何より日向さんの将来を決める大切なお話です。お姉さまにも、ちょっとくらい時間を割いてもらわないと、それはいけません。こういうケースはわたくしも何度か経験がございます。お母さまに何の相談も無しにご自分で進路をお決めになって、後々話がこじれてその意向が御破算になったケースも何度か見てきました。ですので、お兄さま方にはすでにお話は済んでいるということですが、やはり家族全員で共有することが大事だと私は思いますよ」
「ごめんなさい……」
 美琴ちゃんは本当に申し訳なさそうに謝り、縮こまってしまった。夢路音々のことを知らない人間にそんな共有など無意味であると説明できない限り、こうしてただ相手の正論を受け入れるしかなくなってしまうのだ。これを繰り返して美琴ちゃんは強くなっていった。
「でもね、日向さん。先生はあなたの気持ちも分かるんです」
 友好的な笑顔と親しみのこもった声が美琴ちゃんに向けられた。それが何故これほどまでに鼻につくのか。
「あなたのご家庭の状況を考えると、色々難しいこともあるのかなと、先生は思ってるんです。お姉さまはなんせお若いですし、お仕事もある。辛いことを思い出させてしまうかもしれませんが、ご両親を亡くしたあなたを引き取ってくれて、その上養ってくれているという負い目もあなたにはあるのでしょう。これ以上迷惑をかけたくないというあなたの気持ちも、先生はよく理解できます」
 その優しげなお言葉に、美琴ちゃんは殊勝なふりをして「はい」と返事をした。こちらの芝居に関しては全然鼻につかない。むしろよくやっていると褒めたくなってくる。
「お姉さまも……」
 懲りないネズミはまたしても音々に話しかけた。しかもどこか勝ち誇ったような笑顔で。
「できればもっと美琴ちゃんの話を聞いてあげてください。お忙しいのも迷惑なのも分かるのですが」
 すると音々は相手の方を見ながらパチパチと瞬きをした。
「別に忙しくもありませんし、迷惑でもありませんよ」
「は?」
 固まるネズミ。
 音々はあっさりと美琴ちゃんが音々に進路のことを伝えていない理由の論拠となる部分を否定してしまったのだ。妹の努力をこいつは……。
「そう、でしたか。ではこれは美琴ちゃんの思い違いということでしたか」
 驚きつつもこれで一つ解決したという安堵の呼吸をネズミはやってみせた。何かをごまかすために。
「それならやはり、お姉さまの方も、進路の話などは美琴ちゃんからもっとよく聞いてあげてください。家族で共有することが大切なので」
「別に聞きたくはないです」
 音々がはっきりとそのご意向を申し上げると、またしてもネズミの笑顔が歪んだ。
「聞きたくない?」
「私の進路の話ではないですよね?」
 謎の確認をぶち込んでくる音々。私は笑いを堪える為、少しだけ身構えることにした。
「あの、お姉さまは一体……」
「これは私の進路の話ですか?」
 また一瞬石になるネズ公。この質問に答えない限り先へは進めないという音々ルールを知らないのならここで多少手こずることになるかもしれない。と思っていると、
「お姉ちゃん、違う。私の」
 健気な妹が小声でフォローした。苦りきった顔をしてはいるが。
「そうでしたか。では、私が聞く意味はないです」
 音々が断言した。本当にそう思っている者にしか出せないこのバッサリ感。いつ聞いても爽快である。
 ネズミはまたひきつった表情を浮かべていた。彼女はそろそろイップスを発症するかもしれない。
「お姉さま、そんな考えではいけません。受験というのは家族が一丸となって乗り切るべき壁なのです」
 ネズミは熱を帯びた口調で捲し立てた。
「いいですか、お姉さま、家族全員で美琴ちゃんを助けてあげないと受かるものも受からなくなってしまいます。受験生をフォローしない無責任な家族がいる環境というものはいかがなものでしょうか。やはり受験生にとって望ましいものではありません。どうか協力して美琴ちゃんを勉強だけに集中させてあげてください。そのためにはまず美琴ちゃんがどのくらいの大学を志望しているのか、どのくらい勉強する必要があるのか、家族全員で共有することが大切なのです」
 などと毅然と言い放ったネズミ。顔をキメてきているのは気のせいか。
「美琴が私に協力してくれと言ったのですか?」
「は?」
「美琴が私に、受験勉強に協力してくれと言ったのですか?」
「それは言うまでもないことだと申し上げているのです!」
「美琴、私に何か力になれることがあるのですか?」
 ネズミの返答を完全に無視して美琴ちゃんに問いかけるその様子に私は心内で大爆笑していた。自分の質問の答えとして該当しない発言をするネズミを、音々は思いっきり無視したのだ。音々は相手の主張を受け入れようとしているわけではなく、ただ答えを知りたいだけなのだから。
「いやあ、お姉ちゃんには何も……」
 苦しい表情で正直なことを言う美琴ちゃん。家事も含めて姉には何もできないと悟っているのだ。
「日向さん、遠慮することはないですよ。これは日向さんの進路のことなのですから」
 キレ気味のネズミがキーキー言う。ここで美琴ちゃんに否定されてしまったら音々による暴挙がまかり通ってしまう。自分の常識を信じているネズミにはそれが絶対に許せないのだろう。
「光政大学に受かりたいと思っているのなら、その気持ちをご家族に分かってもらえるよう伝えないといけないのです。絶対に受かりたいという強い想いを」
「ええと……」
 絶対に受かりたいとは思っていない反応を示す美琴ちゃんだった。強い想いが無いのだろう。
 それなのに意志を強制してくるということが果たして学校側の正義になりうるのかどうか。私は少し疑問に思った。
「私は今まで通りでよろしいのですか? 何か言ってくれれば協力しますよ?」
 妹に確認する音々。
 そして美琴ちゃんは何かを諦めるかのようにこう言った。
「お姉ちゃんは、これまで通りで………」
「日向さん!」
 ネズミが見たこともない顔をしている。
「そうですか。先生、どうやら受験というのは家族一丸となって乗り越える壁ではないようですよ」
 謎が解けたようなすがすがしい顔つきでネズミに声をかける音々。ネズミの主張が坦々と否定されていく。
「そんなわけありません! なんということを仰るのですか!」
 ネズミが牙を剥いて激怒した。先ほどまでの笑顔の彼女をもう思い出せない。
「先生、あまり怒らないで上げてください」
 何故かこれを音々が制した。ネズミの目が大いなる謎を目の前にした時のようにカッと見開いた。
「あ、あなたに言っているのです! あなたにっ!」
 鋭い眼光のネズミが口角泡を飛ばしながら音々を指差した。
 私はもう限界だった。私の肩が大きく揺れている。よく見ると美琴ちゃんも唇を噛んで耐えているではないか。
「そうでしたか。どうすればお怒りが収まるのか、先生はご存知ですか?」
 真顔でこれを訊く音々。もう限界だ。笑うなという方が無理だ。
 呆気にとられたネズミではあったが、めげずに怒りを取り戻し言い返した。
「それは、あなたが私の話を理解してくれればこれほどまでに厳しく注意することもないのです!」
「先生のお話? どのあたりのですか?」
「ですから、妹さんの受験に際し、あなたに無責任になってもらっては困るということです! あなたを含むご家族のご助力が絶対に必要になってくるからです!」
 ネズミは毅然として主張した。
「ですが、それはすでに美琴に否定されています」
「えっ? 私にぃっ!?」
 美琴ちゃんは思わず自分に指を差して叫んでいた。
「はい。どうやらこちらの先生はそれが気に喰わないようでして」
 もう駄目だ。どれだけ栓を閉めようとも目から涙が溢れ出てくる。
 責任転嫁とも違う謎のロジック。しかしよくよく考えると、姉に何も望んでいないという美琴ちゃんの発言が色々な引き金になっているようにも思える。
 困惑する美琴ちゃん。攻めあぐねる先生。不動のバカ。
 音々の周りにいる人々が、音々の発する異次元空間に引き込まれて身動きが取れなくなるということはよくあることだ。
 ここで私は美琴ちゃんの熱い視線に気付いてしまった。泣きそうな目で私を見てくるではないか。姉がこうなった時にはフォロー(消火活動)することを条件に参加を許されている身としては、このような救援要請があった場合には必ず助け船を出さなくてはならない。本当はもっとやれと思うのだが。
「先生、ここで揉めても意味ないですよ」
 私は涙を拭いながら言った。ネズミが私を見てくる。
「美琴の姉はこういう人間です。それを知っているこちらとしては、どうせこうなるだろうと予想しておりました。だからこそ親戚の私がついてきたわけです。大事なお話は私がお聞きしますので、話を先に進めましょう。美琴は光政大学志望なんですよね」
「え? ええ、そうです」
 我を取り戻したネズミが慌てて姿勢をただし、資料を探し出す。
 その隙に美琴ちゃんがキラキラとした熱視線を私に送ってきた。感謝の意のつもりなのだろう。可愛すぎるので抱きしめてナデナデしてやりたい。
「こちらが美琴ちゃんの一年次と二年次の成績の推移を表にしたものです。そしてこちらがそれを基にした光政大の合格率予測です」
 資料には学部ごとの合格率が小数点まで記載されている。こりゃ便利だ。
 しかし美琴ちゃんの合格率の低さたるや。本気でこんなとこを目指しているのだろうか。
「正直言って、かなり危ういラインです。日向さん自身はこのことについて、どう感じていますか?」
 この時点でネズミは作り笑顔を取り戻していた。ああ、こういう顔だったなと私は思い出した。
「はい。ちょっとまずいですね。これからもっと頑張らないといけないなあと」
 美琴ちゃんも美琴ちゃんで、先生を不快にさせない謙虚な生徒像を取り戻していた。
「そうですね。まだ一年以上あるから、努力次第では全然挽回できると思います。でも本当に光政大を狙うつもりなら、早急にギアを上げる必要はあるわね。できる?」
「はい。この資料を見るとサボってる時間は無いなって実感できます。あと、やっぱり苦手な教科はちゃんと数字として出てしまいますね」
 資料に目を落としながら上手な苦笑いを浮かべる美琴ちゃん。
「それが分かれば上出来です。自分でそれが理解できるなら、あとは目標を立ててしっかり勉強するだけです。各教科のサポートは私たち教師陣が全力でやるので、そっちもどんどん頼ってきて大丈夫よ」
「はい。心強いです。私一人の学習じゃきっと他の受験生たちとの差はずっと埋まらないって思うし」
「このままだとそうでしょうね。でも日向さんには聖林の教師陣がついてます。私たちを信じてくれれば絶対に日向さんの合格率は上がります」
 信じてくれて問題ないというキラキラした目を美琴ちゃんに放つネズミ。
「そう言われると、なんか安心できます。ずっと一人で勉強してきたので」
「任せてください。一人で勉強することも大事ですが、これからはどんどん頼ってくれて大丈夫です」
「そうですね。私もこれまで以上に頑張らないといけないかもしれないけど、先生方もこれまで以上に頑張ってもらいますね」
 悪戯っぽい笑顔をこれみよがしにネズミに見せつける小悪魔。
「ええ、もう、どんどん利用しちゃって」
「はい。遠慮なく」
 そしてとどめに可愛らしさ全開の美少女スマイルが炸裂。
 恐るべき女子である。
 ちゃんと頼ろうとするという大人を手玉に取る秘術を、すでにして彼女は完璧に体得しているのだ。ネズミなどは簡単に操られてしまっている。ネズミの中ではもう美琴ちゃんは勤勉な受験生なのだ。
 しかし人間としてすでに優秀な人材であることが確定している美琴嬢がベンキョウガンバルと言っておきながら、実際は成績が伸びているわけではないというところが気にかかる。少なくとも光政大学をずっと狙っていたとは考えにくい。ということは、もしかしたら彼女は適当に進路志望を書いて提出しただけなのかもしれない。何故なら光政大学とは、私と、そこの音々と、そこの音々の旦那が通っていた大学でもあり、実の兄も現在通っている大学でもあるからだ。適当に書こうとするなら耳慣れている大学の名前であろう。ならば彼女にとってそれは光政大学しかない。
「美琴は勉強しなくてもよいのではないですか?」
 ここで先ほど遠ざけたはずの変人が再び舞い戻ってきた。
「なんですって?」
 分かりやすく戸惑いながらネズミ先生が問い返した。
「私は妹のことがとても可愛いです。美琴が嫌だと思うものは極力やらせてあげたくないのです。美琴が勉強することを嫌がっているのなら、私はその気持ちを優先させてあげたいと思うのです」
 どこか真摯な口ぶりで妹に対する歪んだ愛情を語る狂った姉がここにいた。
 当然、進学校の教員としては、家庭で勉強させないなどという見当違いの了見など言語道断であろう。
「誰が勉強したくないなどと言ったのですか?」
 無表情よりもわずかに厳しい顔。生徒に説教する時の顔はこれかと私は思った。
「言ってませんでしたか? 今。美琴が。先生に」
 言ってない。言っていないし、お前は恐らくだが例によって話を聞いていなかったはず。
 そしてそれなのに当たっているという……。
「言ってません。美琴ちゃんはむしろ逆のことを言ったのです。それをお姉さまがそのように勘違いされるなど……」
 ネズミは深くゆっくりと呼吸をした。恐らくは自分を落ち着けるために。その後、キッと睨みつけて説教するみたいにネズミは言った。
「……いいですか、お姉さま。大学受験に際し、家庭の役割の重要性というものをお姉さまは理解されていますか? 学校だけではなく、家庭の中でもお子さんの継続的な勉強を支える環境づくりがいかに重要であるかを、家族全員で理解していただけない限り……」
 などと、くどくど。
 要するに難関大学に受かるためには学校と家庭の両面で勉強させよと訴えているのだろう。その上予備校に通わせるケースもあるのだという。とにかく二十四時間体制の勉強という苦役を子供に強いてくれとお願いしているわけだ。
 そういえば今日は我が母校の大先輩、斎藤大先生が大学進学の意義について一席ぶっているのだとか。受験には家族のバックアップが絶対に必要、かわいい子にはとにかく勉強させよとか、あのガリメガネがいかにも言いそうな普遍的意見ではないか。いや、絶対に言っているに違いない。そして聴衆を夢の世界へといざなっているに違いない。後で響に確認してみよう。
 しかしこのネズミにしろあのメガネにしろ、学校でも勉強、家でも勉強とは。そのような過酷な環境の中でも家族がきちんとフォローしてやれば自殺することはないとでも言いたいのだろうか。私なんかは本末転倒に思えて仕方がないのだが。
 さて、このメガネ&ネズミのありきたりな意見に対し、普遍性皆無の音々はどのような反応を示すのだろうか……。
「先生、美琴は勉強したくないと言っているんですよ。いくら環境を整えようが、勉強をしたくないという美琴の意志に介入することは家族とてできないことです」
 どこまでも美琴ちゃんの不勉強を信じる音々。
「ですから、美琴ちゃんは一言もそのようなことを申しておりません!」
 ネズミは目を剥いて怒った。
「ですが実際美琴は家で勉強していませんよ。それは一緒に暮らしている家族だからよく分かります」
 圧倒的事実が同居人からもたらされてしまった。妹は勉強したくないと言っている、という先ほどからの音々の主張はこれが理由であったか。
 この悲報により完全に停止してしまうネズミ先生。
そして思いっきり目を逸らす美琴ちゃん。その際姉に対する呪詛の真言を唇の動きだけで呟いていたのは私の気のせいではあるまい。姉の告発はどうやら事実だったらしい。
 それでも美琴ちゃん本人が「勉強したくないと言った」という部分は音々の創作か思い込みであろう。本当は逆のことを言っていたのに音々にはそう聞こえたということは往々にしてあることなのだ。女性総体への悪口とか何とか言われていた書籍もある通り。
「美琴は勉強したくないのですよ先生。ですのでその美琴の勉強したくないという意志に介入することは誰にもできないことだと私は述べているのです」
「そ、それならなおさらお姉さまには妹さんを説得してもらって、今すぐにでも日常生活のルーティンを勉強中心に変えていかないと。日向さんの学力ではまだ志望校の合格ラインに手が……」
「まさか、先生は御存知ないのですか……?」
 ハッと何かに驚く音々。絶対にその驚きは音々にしか理解できない驚きのはずだ。
「何が、ですか?」
「勉強には時間がかかるのですよ?」
「何を……」
「何かを学ぶということはそれなりに時間がかかってしまうものなのです」
 聞くまでも無いことを連発する音々。
「そして勉強とは、何かを学ぶということは、今じゃなくてもいつでもできるものなのです」
 ああ。変論。これは変論だ。
「ですので、私は勉強を放棄している美琴の姿勢には大いに賛成したいと思っているのです。私は子供から時間を奪いたくないので」
 変論の出現に際し、人は一時停止したのち感情を爆発させるということを私は良く知っている。
「な、な、な、何を言うのです! 今やらないと何の意味も無いでしょう! 受験は一年後に迫っているのですよ!?」
「大学受験に年齢は関係無いはずですが?」
「それは……」
 そう言えばそうだったなと、つい思ってしまうくらいに盲点だった。
 受験は高校三年次の冬から春にかけて。そういう先入観が誰しもにあるのだろう。
「そんなことよりも、私は美琴から日々失われる子供でいられる時間の方が大切に思えてなりません」
 たじろぐ相手にも変論の手を緩めようとしない音々。
「先生、美琴が子供でいられるのは今しかないのです。その時代しかできないことをするということは、いつでもできる勉強などよりもはるかに有意義なことなのではないでしょうか? 子供の時しか感じられないもの、目に映らないもの、聞き取れないもの、心が動かないもの……、我々は大人になってしまったからこそ、それらの価値を知っているのではないですか? 子供から時間を奪うことの罪を、本当は大人が一番実感しなければならないのです。勉強するということは、時間を費やすことと同義です。限りある時間の中で、どうして勉強などといういつでもできることを優先させて、二度と戻らない感性の時代を無駄にするのですか?」
 当然のことを申し上げていると言わんばかりの音々の態度。
 思わず言葉に詰まってしまうネズミ先生が印象的だった。
「で、ですから、日向さんには受験が迫っているから、勉強せざるを得ないと、何度も言っているでしょう!」
 これはネズミ先生、音々の変論を喰らい混乱していることをなんとか誤魔化そうとして、同じ主張をボリュームだけ上げて繰り返すという、私が何度も見てきた音々の被害者たちと同じ状態になってしまっている。
「つまり先生は、勉強する意義は受験にこそあるとお思いなのですね?」
ようやくそのことに気付いたような頷きを見せる音々。
「はい? あなたは何を……」
「先生は、勉強する意義は受験にこそあるとお思いなのですね?」
「そんなのは、だって……」
「お思いなのですね?」
 催眠術にかかったみたいに、他人から見ても無意識だと分かる動きでついに首を縦に振ってしまうネズミ先生。これは仕方がない。
「やはりそうでしたか。だから先ほどから訳の分からない主張を繰り返されていたのですね」
「なんですって?」
「要するに、大学側はどのくらい勉強してきたかを見て合否を決めるということですか?」
「言うまでもないことです! 合格するためにみなしのぎを削っているのです!」
「なぜ合否の判定基準がそのようなものになっているのですか?」
「それは……」
 これはとてつもない原点回帰だ。
 誰も答えられない問い。答えがあったとしても誰も納得しない問い。
「数教科数科目、希少で貴重な時間を割いてまでそんなものを修学してきた子供たちは、一体それで何を計られるというのですか?」
 今更そのようなタブーに口を突っ込む人間などこの世にいるはずがない。いたとすればそれは異世界からの来訪者のみ。
「ど、どのくらい努力してきたかを見ているのです! 努力の量を平等に数値化し、それを審査するために試験があるのです!」
 間違いなく模範解答の一つ。
 ただしそれは音々にとってのタブー。
「試験など、ある程度までは努力という要素も絡んでくるでしょうが、残り半分はただの運否天賦(うんぷてんぷ)ではないですか」
 ああ。
 こういうの。
 こういう面白い意見をもっと聞きたい。
「受験時に実際に出題される問題と同じような問題が載っていた参考書を偶然購入していたかどうか。あるいはそれを一年前ではなく直近で目にしていたかどうか。学習塾で同じ解き方考え方の問題を取り扱っていたかどうか。自分がそれを覚えていたかどうか。問題Aは覚えていたけれどBは忘れていた。その逆の人もいるでしょう。Bは忘れていたけれどAを覚えていた人が合格してBを覚えていてAを忘れていた人が失格するなどという単なる運任せの不条理が、果たしてこの国に生きる子供全体にまかり通ってよいものなのでしょうか」
「あ、いや、しかし……、その、効率よくたくさん勉強してきた人は、当然そういった取りこぼしも少なくなるわけで……」
 音々以外に同じことを言われたらもっと強気で反論できるのだろう。むしろ生徒には日頃から同じことを言い聞かせてきているはずだからだ。だが今はこんなタジタジ。
 気付いているからだろう。
 目の前にいるのが誤魔化せない怪物であることに。
「取りこぼしを無くすために膨大な時間をかけて勉強するわけですか。なるほど。では先生のその論理で言うと、受験科目に関わる天文学的な量の知識を全て網羅することこそ勉強なるものの最終目標ということになるのですね」
 音々は地頭が良いので、相手よりも早くその論理の深層に気付くことができる。
「え? いや……」
「しかしそんな大層な知識を三年間で身に付けろと? それとも六年間で? 残念ながら必要範囲内全ての学を修めるにはもっと時間が必要ですよ。しかし運任せではなく努力だけでも十分合否を何とかできるという先生の論理に則れば、これは確実に受験の前までにできなくてはならない修学であるはずです」
「それは……」
 怪物に論理的に黙らせられるというこの屈辱。煮え湯。苦虫。ザマア。
「では仮に、小中高の十二年間でそれが可能ということにしましょう。十二年間フルに使ってあらゆる大学を満点で合格できる脳を獲得するのです。ですが本当にそうなるでしょうか? 子供たち全員が一律にそうなるとお思いですか? 全員同じ道を辿ったとして、全員が同じ結果になり得ますか?」
「ど、努力したことは、裏切りません」
 いや個人差はあるだろうと、つい心内でツッコんでしまう私。
「それは機械の国の話です」
 やはりあっさりと斬って捨ててしまう音々。
「人間である以上、バラつきは出ます。そしてバラつきがある以上、確実に運要素が絡んでくるということです。ABCD、どの知識を覚えているかは人それぞれに異なるということです。大学側はそんなもので合否を判断してしまうのですか?」
「わ、私が決めたわけではありません! そうなっているものなのです! そこから逃れられない以上、あなたが何と言おうと受験生は勉強することこそ唯一の血道なのです!」
「つまり、先生も不確かな合否判定の試験であることを知ってらっしゃる、すでにお認めになってらっしゃる、ということですね。その上で子供たちに勉強を強要していると」
「そ、れは……」
 たしかにこの先生の言う通りなのだろう。何もこの先生が悪いわけではない。もはや社会全体でそうなっているものなのだ。それに大学側だって修学に必要な基準を設けているに過ぎないのだ。このくらいの学力が無いとうちの講義についていけないですよ、という。
 それでも、その判定をする唯一の方法が学力試験などという不確かな手段しかないのはいかがなものかと私も思う。運要素が半分は別に音々の言い過ぎではない。
 日本という国は、きっと人を見るのが苦手なのだろう。だから数字に頼る。不正確なデータしか採取できなくともそれに頼る。真に頭の良さを計ることを考えず、それを模索することすらせず、昔ながらのそれに頼る。
 楽だから。
 かつ、昔からやってきたもので誰も文句を言わないから。
 そのいい加減さ、恣意的怠惰さ、あるいは無思考的怠惰さの最たる犠牲になっているのが……。
「そのような運任せの不確かな、何を計っているのかも不透明な試験のために、美琴の貴重な時間を割くのは、私としてはとても心苦しいことです」
 そう、貴重な子供時代の時間なのだ。今しかできないことの塊をガリガリと削っているのだ。誰も説明できない謎の常識に従って……。
 音々は真摯だった。
 生まれたての赤子よりも透明で直線的な、あまりにも純粋なその瞳。
「先生はそれでも、その限られた時間を学校でも家庭でも勉強に費やせと仰るのですか?」
 見つめられ、固まるネズミ。
いや、これは全員固まってしまうやつ。
 誰も触れてはならないパンドラボックス。
 いわゆる常識。
 音々はそれを揺るがしてくる。
 子供のうちから勉強しないと良い大学に行けないと急かされて生きる無辜の子たち。
 しかしながら、人生の役に立つ「頭の良さ」とは本当のところ何なのか……。
 受験を乗り越えるために鍛え上げる頭脳などではないことは確かだ。
 私なんか不埒者は年を重ねてから成功者然として遊び回るよりも、何事にも無知で何事にも経験不足でかつエネルギッシュで感受性が強い若い時分に遊び回った方が何倍も人生が楽しいと思うのだが。また同じ理由から、年を取ってからだと何をしても楽しみ半減になってしまうと思うのだが。その上、半生を勉強に費やしてきたそいつらには若い頃の良い思い出があまり無いことになる。そう考えると、人生の勝者とは果たしてどちらなのかと考えたくなってくる。
 人を計るにはあまりにも不正確な、そのくせ人の人生を決定的に左右してしまう試験などというもの、受験などというもの。
 そのために消費させられる膨大な勉強時間。
 失われていく今しかできないことの数々。
 大切な時間を全て勉強で塗り潰してしまうこと。それを正しいと思うこと。
 この国に生きる人々の前に相も変わらずに横たわる謎の常識。
 そう、「謎」なのだ。なぜそれが常識なのか。
 ネズミ先生は音々の真っ直ぐな眼差しの中、そのことに気付かされたのかもしれない。

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