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誤解【エッセイ】八〇〇字

 飛行機大嫌い人間で知られていた向田邦子が事故で亡くなったのは、八一年八月二二日。そのころ、向田エッセイの代表作『父の詫び状』の文庫化が進められていた。解説を向田から指名されていたのが、沢木耕太郎だった。彼が執筆を終えようとしていたとき、ニュースを聞いたと、解説の最後で触れている。
 事故の報道は、私の飛行機恐怖症をさらに強めた。怖がりすぎると皮肉な運命が待っているよ、ということなのかと思った。そんな病態なので数えるほどしか海外に出ていない。国内も可能な限り列車か車で、済ませている。
 初めて飛行機に乗ったのは、半世紀ほど前、大学一年の夏休みに、北海道に帰省するときで、羽田から千歳までだった。飛行場から離れた片田舎で育ったので、お目にかかることは少なかったが、たまに見かけると、「鉄の塊なのだから堕ちて当然」と思い込んでいた。帰省する際は利用せざるを得なく、その都度体が硬直し、こう言い聞かせていたものだ。
 「あのような美人のスチュワーデスさんと一緒に死ねるなら本望。堕ちてもいいか」と。
 そんな私が昨年、決死の思いでNYに行った。十三時間も耐えられるか不安だったので、あらためて乗り物の事故の確率を調べてみると、日本では新幹線が一番安全で、その次に飛行機。一番危険なのは、車となっている。運転は好きで、よく乗っている。しかも(捕まらない程度に)スピードを出し。そんな危険なものを平気で乗っていて飛行機を怖がるとは。かくしてデータ通り、無事に帰還する。
 コロナ禍の今年から鉄の塊が新宿上空を飛ぶようになり、悠然と滑空する様を眺めていると、取り越し苦労だったなと、思えてくる。
 沢木も二〇年後に九死に一生を得る飛行機事故に遭遇する。向田が若手の感想を聞きたいというのが指名された理由と、彼は理解していたようだが、二人が事故にあうなんて確率的にあり得ない。ひょっとして指名は、実は運命の悪戯に過ぎなかったのかもしれない。

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