見出し画像

巡礼【エッセイ】一八〇〇字(本文)

― 原爆の図 巡礼 ―

 「どうして、埼玉? しかも、東松山のはずれの田園地帯にあるのか。広島ではなく」と思いながら,市ヶ谷から車で向かった。(関越道)東松山IC降り、10分。田畑や工場を過ぎ、車一台がやっとの小道に入ると、「原爆の図 丸木美術館」があった。近くに都幾とき川。丸木位里いりの郷里(現・広島市安佐北区)には、爆心地近くまでを流れる太田川がある。その川を想いおこすことが、妻・としとの移住先、東松山のこの地に建設した理由のひとつのようだ。
 美術館は2階建て。入館時に撮影が可能かを確認。2階に展示される第一部から第八部の作品の許可をいただく。

2階展示場入り口近く
2階展示場入り口から奥の方向

 《原爆の図》は、1950年から1982年に制作された第一部から第十五部まである。最後の第十五部《ながさき》は、長崎原爆資料館の所蔵となっている。また、1973年に、広島原爆資料館の依頼により《原爆の図》の集大成と位置づけた壁画《原爆―ひろしまの図》を制作。広島原爆資料館で展示されていたが、その後、広島市現代美術館の開館を機に、1989年に移される。なので、2019年と1990年の2度、資料館に行っているが、記憶にない。

 入口近くの写真集などの書籍やグッズを販売するコーナーには60代らしき女性、3人。2階にあがると、私と同年代くらいの70歳前後の女性お二人が鑑賞されていた(写真では避けました)。ひとつひとつ、細部を食い入るように。
 「第一部 《幽霊》」から、圧倒される。縦1.8m×横7.2mの屏風絵の大きさもさることながら、筆のタッチの荒々しさ、色彩に。「死者の怒り」が、胸に突き刺さる。まさに、平和運動家・丸木夫妻のシュプレヒコール、そのものである。
 鑑賞中、ピカソが浮かんだ。
 「《ゲルニカ》との比較」の質問のなかで、位里はこう語る(『閃きの芸術・流々人生』平松利昭[編])。<シュールリアリズムの描き方も経験したけども、《原爆の図》の場合はそんなことを考えなかった。わかりよく、ミーちゃん、ハーちゃんでも誰でもわかるように表現したほうが良いと思った。《ゲルニカ》は、100万人観て、10万人が分かりゃあいいほう。(ピカソの)《朝鮮虐殺》は、朝鮮人そっくりに朝鮮服を着た女の人をかいとるよ。それをやつける(ロボットのような)機械の人間もそっくりのをかいておるんだよ。これなら朝鮮虐殺がわかるよ>と。
(補足)
パブロ・ピカソの《朝鮮虐殺》は、フランシスコ・ゴヤの戦争画《1808年5月3日》(1814年)のオマージュとされる。
丸木位里氏は、「朝鮮人そっくりに朝鮮服を着た女の人」と発言しているが、「裸の妊婦」の勘違いか。

パブロ・ピカソ《朝鮮虐殺》(1951年)

 その通り、芸術作品を鑑賞しているという感覚はない。ストレートに原爆の悲惨さが伝わってくる。被爆者の叫びが。原爆を体験したひとからは、「実際は、もっと悲惨だった。きれいに描きすぎている」との批判もあったらしい。しかし、原爆を扱った映画、例えば『黒い雨』『ひろしま』などを観ているが、やはり映像の(悲惨な表現の)限界なのだろう。《原爆の図》は、超えている。
 《原爆の図》は、屏風仕様になっている。これには、平和運動家としての丸木夫妻の生き方がある。美術館に足を運んでいただくだけでなく、《原爆の図》を運び、観ていただく。やはり、平和運動そのものなのだ。実際に、全国各地、そして“アメリカ”を含む海外にも運び、展覧会を開いた。そのために、当初パネル張りだったが、掛け軸に仕立て、移動できやすいようにしたのだ。それと当時は、占領軍の検閲の危険性もあったので、すぐに絵を巻いて逃げやすくしたこともあるらしい。これらの点が、広島の原爆資料記念館で、大々的に展示してこなかったワケがありそうである。
 しかし、広島の地に美術館を建設する計画がなかったわけではない。1955年には建築家の白井晟一せいいちが「原爆堂」を、構想。またその後、広島市が、三滝町に美術館建設の土地を提供するという話もあったらしいが、いずれも実現しなかった。結局、位里と俊はみずから《原爆の図》を常設展示するための美術館を建てることに決め、1966年に埼玉県東松山市に移り住み、翌年5月に「原爆の図 丸木美術館」をこの地に開設することになったのである。

 丸木位里・俊のテーマは、原爆だけではなかった。南京大虐殺(1975年)、アウシュビッツ(1977年)、水俣(1980年)、水俣・原発・三里塚(1981年)の図、沖縄の図として、久米島などでの日本兵による虐殺など、理不尽な死を遂げた草民、残忍非道と化した人間の姿を描いている(1階展示場)。

 図のなかの彼ら・彼女らは、何も語れない。無言のまま。しかし、いまここで、聞こえる。「沈黙」だからこそ訴える「生への道標」というものを感じながら、8月6日には灯篭が流されるという都幾川を、後にする。

都幾川の灯篭流し(美術館サイトから)

「原爆の図 丸木美術館」
美術館には、《原爆の図》一部から十四部が常設展示されている。
(第十五部《ながさき》は長崎原爆資料館が所蔵)

広島は位里のふるさとです。親、兄弟、親戚が多く住んでいました。
当時東京に住んでいた位里は原爆投下から3日後に広島に行き、何もない焼け野原が広がるばかりの光景を目撃した。俊は後を追うように1週間後に広島に入り、ふたりで救援活動を手伝いました。
それから5年後、「原爆の図 第一部 《幽霊》」が発表されます。
数年間描きあぐねた「原爆」を、水墨画家の位里と油彩画家の俊の共同制作で、やっとかたちにすることができたのです。
はじめは1作だけ、その後は3部作にと考えていた《原爆の図》は、とうとう十五部を数えました。最後に《ながさき》が描かれた1982年までの32年間、夫妻は「原爆」を描き続けたのです。 

(美術館サイトから)

第一部 幽霊(1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第二部 火(1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第三部 水(1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第四部 虹(1951年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)


虹の部分詳細

第五部 少年少女(1951年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第六部 原子野(1952年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第七部 竹やぶ(1954年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第八部 救出(1954年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)

第九部から第十五部までは、「原爆の図 丸木美術館」のサイトをご覧ください。

第九部  焼津(1955年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
第十部 署名(1955年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
第十一部 母子像(1959年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
第十二部 とうろう流し(1968年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
第十三部 米兵捕虜の死(1971年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
第十四部 からす(1972年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
第十五部 ながさき(1982年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m) 
※長崎原爆資料館所蔵


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?