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大人の言語化能力は子どものいじめに繋がっているのではないか

気づいたきっかけ

僕は可能な限り言葉を尽くしたいという価値観を持っています。一方で言葉にすることが難しく、感情に訴えてしまう人も一定数います。これは子どもの話ではありません。大人の話です。自分の思いや感情を言葉にするのが難しく、嫌なことがあっても黙ってしまったり、言わなくてもいいやと諦めてしまったり、蓄積しすぎて爆発したりというのはよくよく恋愛相談には出てくる話です。

仕事でも僕は言葉を尽くしたい。相手が考えていることを知りたい。そのためには言葉にしてもらわないとわからない。もちろん表情や声色から感情はある程度読み取れますが、その背景や理由は話してもらわないとわかりません。空気を読むことにも限界があるし、空気を読むことで誤解もあります。おもてなしのように美しい目的で空気を読むことは日本人の美徳として持っておきたいですが、議論のためには言葉を尽くすことはあきらめてはいけないと思っています。が、現実はそうではありません。これは日本人だけではありませんが、議論すると自分自身の人格が攻撃されていると思う人が非常に多い。典型的なのは議論して感情が爆発する人です。なぜ議論で感情が爆発するのか。自分が理解してもらえないことで、自分が理解してもらえるような言語化をできない自分への苛立ちなのか、なぜ自分を理解しないのかという相手への苛立ちなのか、いずれにしても言葉にできないから苛立っています。と思えば逆に、議論が怖いという人もいます。かくいう僕もそうです。

仕事ではなくてもたとえば恋愛の場面でも言葉を尽くそうとする人に対して「理詰め」「理屈」と言ってみたり、そもそも言葉を尽くされた時点で恐怖感を感じてしまう人もいるのです。

つい先日も仕事の場面で感情的なリアクションを見たときに、人間だから議論で言われている事実とその人の人間性には何も関係がないので切り離して考えられるようにしましょうと諭しました。自分自身も含めてこの切り離すことは難しく、できる人の方が少ないかもしれません。これを切り離さないと議論は苦痛すぎてやる気にもなりません。ふとここで、議論の下地がないことが子どものいじめと同じようなカラクリではないかと思い至りました。

教育で行われていること

まず前提として教育において言葉を尽くせているかどうかがあります。たとえば子どもに対して叱りつけるときに「こんなこと言わないとわからないの?言わせないで!」という叱りつけ方を見たときに、これは空気の重圧で恐怖心を煽っているだけで、叱るという行為ではないと感じます。と同時にこうやって空気を読むことを覚えていくし同調圧力が形成されていくのではないかとも思います。おそらく叱られた子どもはなぜ叱られたのかは理解していないと思います。叱るというのは諭すようにするべきだと考えていて、子どもだから言葉はわからないとなめず、なぜそのような行為をしたのかを傾聴し、それに対して諭すのであれば言葉を尽くして諭すべきだと思います。が、現実はそうではない。非常に小さな頃からこの教育は行われていて小学校高学年にもなればしっかりクラスの中で静かにできる集団ができあがります。おそらくこのケースは非常に多いと推測します。

子どものいじめと言語化の関係性

ここで過去の自分を振り返りながら子どもの目線に移してみたいと思います。

いじめる側にまわっている子ども

いじめも突然何の理由もなく始まるわけではないと僕は思っています。少なくとも僕はそうでした。僕の場合は小学生のときにある男子がある女子に嫌がらせをしているというので僕がその男子に注意したのですが、それがまた別の男子に知れると「カッコつけ」ということで僕がいじめられる対象になりました。僕が自宅の下で友だちと遊んでいても、そのボスが自宅にやってきて僕の友だちを連れて帰ってしまうこともあり、当時はとても悩みました。

いじめる側にまわっている子どもはこのとき、嫌がらせをしている男子に注意した行動に対して何らかの感情を抱いたのだと推測します。しかしその感情を言語化することができないので説明できない。説明できないとその感情を向ける矛先がなくなるのは大人と一緒です。これによっていじめという行動に走るのだと思います。言語化の訓練を小さい頃からされず、逆に空気を読むことばかり教えられたので感情を言語に落とし込んで、言語で解決できないのだろうと思います。

理想的にはその感情を言語化した上で、それを僕に伝える方が良かったと思います。もちろん受けての僕も自分自身を攻撃されているわけではなく、僕の行動が彼にとっては嫌だったのか、何か他に理由があるのか、とにかく何か僕に非があったのだとすれば謝るし、たとえば本当はその男子がその女子を守りたかったのだとすれば、今後はそうしてあげてくださいと伝えるだけです。

いじめられる側にまわっている子ども

僕はいじめられる側だったので実体験を持ってお話しすると、僕は今でもいじめてきた人に対して苦手意識を持っています。が、冒頭で述べたとおり気付いた瞬間に、それはなぜだろうとも思いました。いじめた行為が嫌なのであってその人自身ではないはずです。人自身とその人の行為は異なるもの。西洋哲学では人間には理性があることを前提としていますが(民主主義すら理性があることを前提としています)、人自身には理性があり、その人がした行為は切り離せるものであり、その人は修正できるということになります。となると、僕もその人自身と行為を切り離せていないことになる。

いじめられているその瞬間については非常にセンシティブな内容になりそうなのであくまでも自分の体験として書きます。いじめられているその瞬間、僕は自分自身を攻撃されていると感じていました。だからこそ苦しいし、なぜそんなことをされなければいけないのかわからなかった。そのとき僕は祖母に相談したことがあるのですが、僕の祖母の答えは「いじめる側もいじめられる側も紙一重。自分に何か原因はないか考えてごらん。」というものでした。当時の僕はこの祖母の言葉を100%理解できていなかったと思います。正直、いじめられているのは僕なのになぜ僕が直さないといけないのだとも思いました。が、今思えばこの祖母の言葉も、「自分」と「いじめられているという事実」を区別して考えたとき、「いじめられているという事実」が生まれた原因は僕の「行い」にある可能性があるから考えてごらんと言われたのだと理解しています。そして実際に反省した行いがありました。

ただこのとき僕は、今考えると良い面ですら自分で封印しようとしました。たとえば目立つことやリーダーシップを取ること。「出る杭は打たれる」という言葉を知り、出てはいけないのだと思ったものです。しかし本当は出た杭を礼賛できる状態にしていきたいものです。そうでないと世界は進歩しにくいからです。「出る杭は打たれる」という言葉を調べると「才能ある人は妬まれる傾向にある」という意味でした。ではなぜ妬むのか。

自己受容感をいかに高めるような環境を作るか

おそらく全ての人間が自分を受け入れ自分で良いのだと思えていたとしたら妬みは発生しないと考えます。もし瞬間的に妬みが発生したとしても、自分を受容できていたら自分で良いのだと思えたり、もしくは努力すれば手が届く話であれば自分だってできると強みにすることもできるはず。逆に自己受容していないと自分の立場が危うくなるばかりなので攻撃的になるでしょう。自己受容を小さいときから全ての人ができるように働きかけられれば、完全に撲滅できるかはわかりませんが、改善されるのではないかと思います。

今、全ての人が言語化能力を身につける必要性

全ての人間は言語化能力を身につける必要があると思います。感情でぶつからず言葉で解決できるレベルです。「空気を読む」というのは便利ですがそれはおもてなしのような日本の美徳の範囲で使うようにして、むしろ積極的に言葉にして議論するという環境にできれば、ビジネスシーンもプライベートも子どももより発展的になるのではないかと思います。社会をいますぐ変えることは難しいですが、社会は漸次的に変わっていくものなので、自分のまわりから進めたいと思います。

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