あなただけが、なにも知らない。#16
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「いただきます。……怖い夢でも見たの?」
彼女はコーヒーを飲みながら、もう一度僕の顔を覗き込み言った。
僕は顔を隠すように手に持っているコーヒーへ視線を落とした。そして言う、「これドリップ?」分かっているのに聞いた。
「そうだよ。ドリップがいいでしょ。なんか、うなされていたよ」
「……ありがとう」
そう言って僕はコーヒーを一口飲んだ。
時々、記憶が抜け落ちたように何も思い出せなくなるんだ。幼少期の記憶は殆ど無いけど薄色を探すようには思い出せる程度はある。良いことも、そして辛い事も殆ど覚えてはいないけど、僕はその事を余り気にはしていない。寧ろ、好都合だと思っている。微かにある記憶には微笑ましいとか懐かしいとか、あたたかいだとか、そういった類のものが殆ど無かったから。
僕は無意識に一点を見つめ、離れて行く魂を餓鬼の様にただただ無責任に眺め、じっとしていた。
「ごちそうさま」
彼女の声で現実に連れ戻された気がした。
僕がやることは、たしか……午前の掃除と散歩。あとは食器洗いを毎回する。これで家を守れている、らしい。全く意味が分からなかったけど、不思議と苦痛は感じなかった。掃除は、昨日言われた通り一階と二階に分かれて始まった。彼女は今日も二階だった。彼女が階段を上がる前、二階の掃除をしようと試みたが、「勝手なことはするな!」と怒鳴られた。
二階に何があるのか、その時は気になったけど何も訊かなかった。
掃除後の散歩は、二人でする。それも約束の一つ。約束をしなくても自然とそうなっただろうと僕は思う。
そういえば昨日、散歩の途中に、「いい加減、名前で呼べば」と諭された。僕は、まだ彼女の名前を呼んだ事がない。彼女は、平気で僕のことを拓海と呼んでいる。「名前って呼ぶなよ。南海だからな」と付け加えた。さすがの僕でも、それくらいは分かっている。その時から名前で呼ぶ機会を窺っていた。
午後は自由だった。昼食は冷蔵庫に入っている調理済みの野菜を好きな時、好きなだけ食べて良かった。そのせいか南海は冷蔵庫を頻繁にチェックし、よくキッチンに立っていた。僕はといえば、当然の様に時間を持て余していた。玄関横の椅子に座り、外の景色を眺め、時間の無駄遣いを思い、独り痛みの幻想に浸ったそんな時、決まって南海は顔を出し、僕の様子を窺っているようだった。
夕食も南海が作り、必ず二人で食べる、それも約束。他にも何か言われたが、覚えていない。これら諸々のルールは全て南海が決めた。僕に発言権はなかったし、それで良かった。
僕が夕食の食器を洗い始めると、南海は何も言わずあの倉庫へ行った。あの日以来、絵の話はしていない。
食器を洗い終わり蛇口を閉めた。以前、僕が洗い終えた食器を見て南海は、「拓海って意外と神経質なのね」とボソッと言った。過去にもそう言われた事があったが自覚はしていない。
窓から外を見ると、倉庫からの明かりが外の黒さに阻害され霞んで見える。空を覆う黒く分厚い雲から降りてくる雨は、行く手を阻む葉を押しのけ、その先にある地面に自分を打ち付けている。飛沫が舞い、辺りが白く曇って見えた。そんな大粒の雨は、樹皮を剥がし取るように幹を濡らしている。
外の風景に嫌悪感を抱くよりも、倉庫に行くことの方が僕にとっての不安は大きかった。それでも、僕は傘を探した。
辺りは暗色に染められ、雷鳴が腹の奥に轟き響く。靴は直ぐに泥に塗れ、その中の足の指の爪を冷やした。幸い、風はそれほど強くなかった。倉庫に来るのは、あの日以来だった。あれから僕は、ここへ枯れ枝を運んだことはない。
ノックをするべきか迷って止め、ドアを開けた。
倉庫の中は、あの日から何日も経っていないのに何かが変わっているような、そんな気がしてならなかった。南海は、こちらに背を向けてあの絵の前に座っている。
小刻みに揺れる背中を僕は黙って見ていた。ゆったりとした優しい表情で絵に接している、何となくそう思った。
「なに?」
南海は、手に持つ筆を止め、振り向きもせず少し迷惑そうに言った。
「雨が降っていたから……」
僕は戸惑い、傘を強く握った。南海は何も言わず、また絵を描き出した。
「……傘、ここに置いておくから」
僕は帰ろうと踵を返した。
「見る?」
彼女の言葉に驚き、僕は思わず振り返る。
南海は僕を見ていた。
一瞬心臓が静止した、そんな気がした。
「……いいの?」
今度は胸が騒いだ。
見ない方がいい、誰かにそう言われた気がした。
「いいよ。減るものじゃないから。まだ途中だけどね」
どことなく恥ずかしそうに、そして何かを期待するかのように南海は立ち上がる。
僕はゆっくり。出来るだけゆっくりと絵に近づいた。
「あんまり上手くないでしょ。習っていた訳じゃないからね。でも、絵を描くのが好きなの、小さい時からね。特に海の絵……」
「黙れ……」
「……が……。えっ?」
いつもそうなんだ。
嫌なことから窮屈さを感じるんだ。
門外の不自由さに戸惑うんだ。
いつもそうなんだ。
いつも……。
いつも……。
いつもいつもいつも……。
そしてまた……、僕は飲み込まれてゆくん……だ。
……つづく。by masato
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