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あなただけが、なにも知らない。#14

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 上から見た水の流れは速く。昨日の雨を背中に乗せているように見えた。

「昨日の雨、凄かったから」

 彼女はそう言って笑った。

「普段は飲める?」

「分からない。でも、綺麗でしょ」

「そう? 少し濁っているよ」と言う僕の顔を見て、彼女はまた笑った。

 太陽に照らされた水面は光を受け入れ、入りきれないそれらは、空への帰り道を探しているのか、僕達を照らしていた。

 彼女は、森の中で優しかった。この森が好きなのだと伝わって来る。

 川に掛かる小さな橋の上から影を覗いた。

「魚は居るの?」

「いるよ。今日は見えないね」

「釣りがしたいな」

「……倉庫にあるはず」

「一度だけ父さんと釣りをした記憶がある」

「そう……」

 彼女の表情が急に曇った気がした。

「……今、通って来た道、見覚えある?」

彼女は続けて言った。

「いや……。ないけど」

 また、その質問か、と僕は思った。

 それから暫く僕達は黙って歩いた。頭上の葉は、湿った表面を乾かすように風にそっと揺られている。その向こうにある朝焼けの空は赤く澄んでいた。

「雨上がりの朝は、気持ちがいいな」

 僕の小さな声が聞こえたのか、彼女は前を向いたまま、何か嬉しそうに微笑んでいるように見えた。

 そして僕達は、それからの帰り道、言葉を交わすことなくログハウスへ戻ってきた。

「涼真から何も聞いてないの?!」

 彼女はソファーの前で肩を落とし立っている。

「ちょっとした手伝とは言われたけど……」

 正直に言う僕の顔を見て、彼女は大きく溜息を吐き、呆れた様子でソファーの上に勢いよく座った。

 彼女は肘を膝の上に置き、顎を片方の掌の上に乗せると、「水!水持ってきてよ」と、冷蔵庫の方を空いた手を使い指差している。

 僕は彼女の気を静めようと、仕方なく水を取りに行った。

 冷蔵庫の中には彼女が作ったのか、おかずが幾つも入っている。飲み物は水だけだった。コーヒーを探したけど、作り置きはしていないようだ。

「早く」と、彼女は僕を急かす。

 リビングへ戻り彼女に水を手渡した。彼女は不思議そうに水を眺めている。……まだ眺めている。彼女は変わっている。僕は、そう思った。

「拓海って……。変よね」

「よく言われるけど……」

 なぜ、そう言われるのか理由はわからない。

 彼女は眺めている水から、視線を僕に向けた。そして力強く水の入った瓶を前に突き出した。

「普通、水と一緒にコップも持ってくるでしょ。コップ!」

 僕は目を大きく見開き、三回続けて瞬きをした。

「……コップ、取ってきます」

 言う必要もなかったけど、これ以上、彼女を怒らせる訳にはいかなかった。

 これからは、僕の行動を逐一声に出そう、そう思った。

 水を入れたコップを手渡すと、「ありがと。」と、顎を突き出して言った後に彼女はコップへ水を注ぎ入れ一気に飲み干した。

「僕は何をすればいいのかな?」

 とりあえず、僕がここへ来た理由を訊いてみた。

「守るの」

 空になったコップに、二杯目の水を注ぎながら、彼女は当たり前のように言った。

「守るって、どういうこと? 何を守ればいいんだろ」

 そもそも、この家に犬や猫も居ない。その他の動物も飼ってはいない。いや、僕が見ていないだけか、それとも森の中の動物だろうか。

「家よ。この家」

 僕は、ますます彼女の言っている意味が分らなくなった。

「だから、この家を守るのよ!」

 困惑している僕を見て、水を一口飲んだ彼女はイライラし始めている。

「家を? この?」

 意識して涼真のような明るい声を出してみた。

「そうよ。朝陽が昇ったら起きて、朝食を食べるの。それから片づけをして、掃除をするの。掃除は良いわよ、食器洗いと同じくらい好き。それが終ったら散歩に行くわ、今日みたいにね。気持ちよかったでしょ。靴が汚れちゃったけど、別にいいの。空気がホントにおいしいしね」

 彼女は、子供のように声を弾ませて言った。

 僕は、なぜ彼女が嬉しそうなのか、楽しそうなのかが理解できなかった。よく聞く言葉だけど、空気が美味しいとは、どういう事なのだろうか。

 彼女は家の外にある物置から箒を二本持ってきて、そのうち一本を僕に渡した。一通りの説明を受け、僕は一階の掃除をするということだった。

「ちょっと待って。これでするの? 掃除機は?」

 箒でするには、この部屋は広過ぎる。

「そうよ。文句ある?」彼女の眉間には皺が寄り始めている。「掃除機は週一回でいいの」

「そっか。でも、二階の方が狭いよね」

「文句ある?」

 眉間に皺が寄っている。

「……ないよ」

 僕は無意識に少し笑って、そう言った。

 飲みかけの水が入ったコップを洗おうと手に取った。

「コップ、洗ってから掃除するから」

 彼女に伝えるつもりではなく、取りあえず声に出した。

「残ってる水は冷蔵庫に入れておいてね。コップのまま!」

 何やら彼女にも考えがあるような、そんな言い方だった。

「拓海の水も、捨てないでよ」そう言って二階に上がった。

 彼女のコップにラップを被せ、冷蔵庫に入れた。僕は、自分のコップに入った水を飲み干した。

 僕は立ったまま暫く箒を見ていた。最近、掃除というものをろくにしていない。ましてや箒を使うなんて何年ぶりだろうか。箒自体に変わったところはないが、柄の部分が少しくすんで汚れていた。僕と同じように、掃除をさせられた人が居たのかもしれない。

 彼女に怒られる前に僕は掃除を始めた。

 ……つづく。by masato

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