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あなただけが、なにも知らない。#13

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 いつもなら不快に感じる朝陽が、今朝は何も感じない。不思議だった。

 キッチンの方から音が聞こえる。水が流れる音。何かが焼ける様な音。物がぶつかり合う音。不快なはずの音が、ここでは僕を包み込むようにやさしく寄り添ってくる。いい香りがした。

 ……母さん。なぜそんな事を思い出したのだろう、僕には分からなかった。

 しばらくして、彼女がお盆を手に持ち、リビングへやって来た。

「……おはよう」

 彼女は目を合わそうとせず、朝食を低いテーブルの上に置き始めた。

テーブルの上を布巾で拭く前に朝食を置き始めたことよりも、彼女の左頬に付いている青い絵の具が気になった。

「じろじろ見ないで。気持ち悪い」

 僕は慌てて視線を逸らし、水を飲み直そうとコップに口を付けた。

中に水は入っていなかった。

彼女は立ち上がりキッチンに戻ろうとして、僕の方へ振り返った。

「拓海って、口パクパクして寝るのね」

 そう言った彼女の口角は、少し上がっているように見えた。

 コーヒーを飲んでいない僕の頭は、まだはっきりと覚めてはいなかった。眠い目を擦りながら、テーブルの上に置かれた朝食を見る。焼きたてのパンに、ハムと卵が乗っている。カップからは白い湯気がたっていた。

 彼女は戻って来るなり、寝ている涼真を蹴飛ばし、「いつまで寝ているの。涼真! あなた、今日帰るんでしょ」と言った。

 蹴られて目を覚ます涼真は、まるでナマケモノが動くように、ゆっくり体を起こした。

 涼真は両手を上げ背筋を伸ばすと大きな欠伸をした。そして思い出したように南海を見ると、「いつ帰って来たんだよ!心配したんだぞ!」と、朝から大きな声で言った。

「早く朝ごはん食べてくれる」

 彼女はもう食べ始めていた。

 涼真は不満げな表情を浮かべ、渋々手を伸ばしパンを口に運んだ。

「いただきますわ?」

 そう言い、彼女がテーブルの上を叩いた音は、僕が確認できる範囲の空間に響き渡り、その直後、辺りは静けさに包まれた。

 僕達は、肩を竦めながら、「……いただきます」と言った。

 彼女がパンを口に運ぶ。

 涼真もパンを一口食べた。

 僕もパンを口に運んだ。

 彼女が飲み物を一口飲む。

 それに続いて涼真も飲む。

 仕方がないので、僕もその後に続いた。

 何故か誰も声を出さず、僕と涼真は緊張しながら食べていた。カップの中身が気になり覗き込んだ。コーヒーが入っている。

「これドリップコーヒー?」

 僕の声が沈黙の中で不謹慎に響く。

「文句ある?」

 彼女の突き放すような言葉の中に、不思議な優しさを感じた。

「……ありがとう」

 そう言って僕は、ドリップコーヒーを、また一口飲んだ。

 僕は状況が掴めなかった。涼真は帰る支度を始めている。さっき彼女は涼真に「今日、帰るんでしょ」と言った。

 僕は、無職だから普段から時間が有り余ってはいるが、てっきり一緒に帰るものだと思っていた。しかし、彼女の言いつけで僕は今、朝の食器を洗っている。涼真に事情を訊きたいのに、近くに居ないので今は無理だ。早く洗い終えなければ……。

 水の勢いは思いのほか弱い。涼真と彼女が何か話をしているようだが、水の音が邪魔をして聞こえない。

 ここの水は冷たく感じる。僕がいつも触っている水よりも透き通っている。カルキ臭くもない。しっとりとして、とても気持ちがいい。森のおかげだろうか。なぜだか僕は、そんな事を考えていた。

 洗い物を終え、急いでリビングに向かった。しかし、そこには誰も居なかった。

 車のエンジン音が聞こえた。僕は玄関の階段に注意して慌てて外に出た。

 涼真は車に乗っている。

「拓海。後はよろしくな!」

 涼真は大きな声を出して、執拗に手を振っている。

 僕の左隣で小さく手を振る彼女は、微かに微笑んでいた。

 一旦車をバックさせ、そのまま昨日来た道を走ってゆく車に、なぜか僕も胸の前で小さく手を振った。車は、直ぐに見えなくなった。

 遠くに見える空と森は一線を画しているように僕の目には映った。

 巨大な空は青く、それと比べられる雲は、とても小さく白かった。

 昨日、あれだけ降った雨は、何処へ行ったのだろう。地面には、早く自宅へ帰りたそうな水たまりが出来ていた。

 樹々の葉先が少し重たそうに頭こうべを垂れている。樹の幹は湿っぽく、触ると手に樹皮が付いた。樹は樹皮を剥がす僕を警戒するかのように目の前に大きくそびえ立っている。

「水で繋がっているんだよ。雨で繋がるの」

 いつから居たのだろうか、樹の幹に触っている僕に、彼女は嬉しそうにそう言った。

「空と森は雨で繋がるの。これだけ離れていても、雨の降る日は混ざりあって、雨が架け橋になって渡れるの。そして、混ざり合った雨は海へ行くは。だから、私は雨が好き」

 彼女はそう言って、僕の触っている大きな樹を見上げ、涼しそうに微笑んでいた。

「ちょっといいかな?」

 彼女はそう言って、僕を散歩に誘った。

 歩きながら花の名前や虫の名前を僕に教えた。見覚えのある光景だった。僕は彼女の話を聞くだけで、ほとんど話はしなかった。知らない間に、僕は少し緊張していたのかもしれない。

 Y字路の小道を左に進み、少し行った所に小さな川が見える……。

 ……つづく。by masato

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