この問題作を受け入れられるだけの感性が、日本にあるだろうか? 〜 映画『エル ELLE』〜



 『ロボコップ』や『氷の微笑』などで知られるポール・ヴァーホーヴェン監督は、とんでもない問題作を作りあげた。主人公のミシェル役にイザベル・ユペールを迎えたその映画は、『エル ELLE』と呼ばれている。

 『エル ELLE』の物語は、凄惨なレイプシーンで幕を開ける(※1)。だが、失神から目覚めたミシェルは警察に通報することもなく、部屋を片づけはじめる。翌日には、経営する会社で社員に強権的な立ち居振る舞いを披露するなど、何事もなかったかのように日々を過ごす。その姿は被害者というより、レイプさえもひとつの体験として消化しようとする研究者みたいだ。もちろん、被害を受けたことに変わりはないし、ミシェルもショックを感じているとは思う。だが、そうしたショックを経たからこそ、男性という存在の暴力性を理解し、“男性的”とされるものをミシェルなりに次々と手なずけていくのではないか。決して怯まず、むしろ淡々と男の暴力を処理していく姿を見てると、そう思いたくなる。

 こうした構図は、ヴァーホーヴェンの十八番である。たとえば2000年に公開された『インビジブル』では、天才科学者セバスチャン(ケヴィン・ベーコン)を幼稚で愚かな男として描き、そのセバスチャンに対抗するリンダ(エリザベス・シュー)を毅然とした強い女性として描いている。そんな『インビジブル』は、ブラックな笑いが込められたエロティック・スリラーという怪作だが、この方向性により多くの毒や皮肉を注いだのが『エル ELLE』と言える。そのブラックな笑いが、男という生き物の愚かさを浮き彫りにしているのは言うまでもない。

 ただ、こうした解釈が日本でも受け入れられるかといえば、かなり不安だ。ミシェルが被害を警察に言わないのは、セックスにおいて女性は受け身であるという思い込みがいまだ根強いため、レイプされたと言っても聞き入れてもらえないこともあるからと想像できる者が、日本にどれだけいるだろうか。あるいは、海外ではそうした思い込みがあると多くの人に共有されているからこそ、ミシェルの行動が注目され、『エル ELLE』を支持するフェミニストもいるという意義に気づけるだろうか。人権、性暴力、男性優位社会など、さまざまな面で議論が遅れている日本には、『エル ELLE』を受け入れるだけの感性がまだないように思える。



※1 : 性暴力を受けた方からすると、フラッシュバックを起こす可能性もある、かなり厳しいシーンだと思います。観る際は気をつけてください。

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