冷静になってよく考えれば分かるという話。
※この記事は2020年4月16日のコラムを加筆修正したものです。
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この文章自体がおそらく9割の人にはスルーされることと思います。
しかし、それでも少数派の方々には突き刺さることを私は知っていますし、その必要性のためだけに書いています。
こんな時は黒澤明の「生きる」とかが良いんじゃないでしょうかね。無理して生き残る必要なんてないですよ。
冷静になってよく考えれば分かるという話。
コロナの一件で「変化に対応できたものだけが生き残る」という表現が盛んに使われるようになっていますね。
これ自体は生物全般にはいえる事実なので否定はしません。が、実際にこのコロナの件が起きたことでお尻を叩かれるようにして対応を迫られている、そもそもがその状態だった時点でもう手遅れなことは間違いない。
人間だけが他の種族と違って思考を使って「予め」を働かせることができる意識を持っています。
にも関わらず「さあ有事だから変化に対応しよう」というのは、そもそもの人生のスタンス全般がはじめから狂っていたと。それまで「普遍的な思考」を使ったことがなかったと。
ちょっとグサっとくるところかもしれませんが。そういった方達は「社会的な思考」に侵されているわけです。
『どんな土台(思考)の上に人生を組み立てるか?』ここが重要で、どんな土台が風化・劣化しやすいものだといえるのか、それは歴史を学び、そのプロセスによって概念を育てれば自ずと見えてくることですね。
コロナ禍、サウナでのすごい違和感
ちょっと話は変わりますが、
昨日、日中に鶯谷のサウナに行ったのですが、熱いサウナを出たり入ったり合計で50分ほどいました。
その間、密室には常に10人以上の男性がいて、備え付けのテレビではひっきりなしに「人との接触は避けましょう、2メートルの社会的距離を…」というワイドショー。
汗をダラダラかきながら男たちはそのテレビを黙って見ている。
↑当時の矛盾感はすごかったですね笑
目覚めるためには、一度死ぬ必要がある。
どんな土台(思考)の上に人生を組み立てるか?の話に戻します。
根本的な生命力のあり方はヨガやシャーマニズム・スーフィズムの伝統がこれまで数千年と変わらず継承しているものですが、それらが主張している健康体は、あくまで熟練された哲学体系ありきで、その実践を元に成立するものだということ。
それが、この後に及んで我が身や、身内の健康だけが可愛くなるのは七つ大罪で言えば怠惰だと。つまりこの一連のコロナの件においては「自分自身へ怠惰性への自覚を生じさせ得るか」ここだけが今回のポイントといえます。
「わたしは怠惰だった、、、」と、わざわざ自分を苦しめるような意識を、どれだけの人が自分自身に適用できるでしょうか?
エソテリックの伝統では「目覚めるためには、一度死ぬ必要がある」と言い伝えられてきました。
生死が善悪の極性になっているうちは、人間は往々にして死から目を逸らしてしまい、そうしていることによって、反作用的に生きることの意味もぼやけがちになります。
しかし「気づき」や「目覚め」、それらを促す一見、不愉快な事実に対しての自覚を第一価値におくと、そこで人間は初めて死ぬことに目を開くことができます。
人生哲学の土台を根こそぎ作り替える。
気づきや、そのために真実を「識ろうとする希求」は人間に死と直面する勇気と機会を与え、その勇気が結果的に人を変わることのない普遍的な法則の世界へ導くのです。(私は無宗教ですが、この点で胡散臭さを感じる人はそもそも毒されています)
結論です。
変化に対応しようとすることは今すぐやめて、まず自分が築いてきたものの儚さを直視すること。そして人生哲学の土台を根こそぎ作り替える。
「社会的に変化・対応する思考」から「普遍的なものを体感・体現していく思考」へあなた自身を進化させてください。
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