見出し画像

サッカーが与える絶望と希望。ティトー、ユーゴ内戦、そしてオシム 7/9

#7:オシムが命がけで試みたこと

■目の当たりにした交渉劇

ボスニアのサッカー連盟は、今でこそ立派なビルを構えるようになったが、当時は市内にある雑居ビルのような建物に間借りするかのように、小さなオフィスが設けられている程度だった。事実、オフィスには机を置いただけの簡単な受付と、小さな会議室がいくつかあるのみ。日本に例えるなら、個人商店の事務所程度といえばイメージしてもらいやすいだろうか。 

建物の外でしばらく待っていると、アタッシュケースを持ったUEFAとFIFAの使節団が出てくる。中では「正常化委員会(連盟会長を一本化するための組織)」の座長を務めるオシムが、現地メディアの取材を受けていた。

その後、僕たちは近くにある小さなレストランに移動。オシムは妻のアシマさんと共にソファーに座ると、瞼を閉じたまましばらく黙り込んだ。表情は苦悩に疲労に満ちている。しばらく沈黙が続いた後「大変でしたね」と声をかけると、オシムはようやく眉を上げ、相槌でもうつかのように少し首をかしげてみせた。 

正常化委員会の座長として、現地メディアの取材に応じるオシム

■立ちはだかる政治の壁と戦争の記憶

正直、僕はUEFAやFIFAのスタンスが厳しすぎるのではないかと感じていた。たしかに正常化は必要でも、旧ユーゴ諸国の中で最もひどい戦禍を乗り越え、再び歩み始めた国に制裁を科すのはあまりにも酷だ。

ボスニア代表はEURO2004、W杯2010年大会では本大会出場をすんでのところで逃していたが、EURO2012の予選では同国が輩出した新世代のエース、エディン・ジェコなどを中心に健闘。同じグループのフランスに追いすがろうとしていた。ここで起きたのが、資格停止処分問題だった。

ましてやボスニアは、依然として複雑な民族問題を抱えている。現にオシムは、地元の記者に次のように語っていた。「FIFAには政治的な問題をもっと理解してほしい。私が望むのはそれだけだ。政治的な問題こそが(混乱の)原因になっているのだから」

■会長を出せないなら、制裁を受けたままの方がいい

オシムが語った「政治的な問題」なるものが、紛争によって悪化した民族間の憎悪と不信を指すことは指摘するまでもない。しかもこのような状況は、政治の世界だけでなくサッカー界にも暗い影を落としている。ボスニアの連盟はセルビア系、クロアチア系、ムスリム系の三派に分裂。各派閥を代表する人物が会長職に名を連ね、交代で要職を務める状態が続いていた。

結果、当時の連盟では、建設的な妥協案を見出すことも難しくなっていた。各派は本音のレベルでは、事態の収拾を望んでいたのかもしれない。しかし会長が一人に絞り込まれるということは、残る2つの派閥が発言権を失うことを意味する。「自分たちのグループから会長を出せないなら、制裁を受けても一本化などできないままでいた方がいい」。現地レポートは、その種のメンタリティが関係者に作用していたと、はっきり断じている。

■オシムが命がけで試みたこと

ならばオシムは、かくも持つれた糸をいかにしてほどいていったのか。むろん彼ほどの人望と影響力があれば、力業で正常化を進めていくことも可能だったはずだ。だがオシムはそのような愚を避け、国内を行脚しながら連盟の機能不全をもたらしている根因、各民族や派閥が抱いている根強い不信感と、敵対感情をほぐしていくことを試みた。

具体的には、クロアチア・ボスニア系の政治的なリーダーであるドラガン・コヴィッチと話し合いの場を設けながら、セルビア系の勢力が建国した「スルプスカ共和国」の大統領、ミロラド・ドディクなどとも対話を開始。老体に鞭打ちながら、辛抱強く説得を行っている。

とりわけドディックに接触したことは、少なからぬ驚きをもって受け止められた。スルプスカ共和国はボスニアが建国を宣言した際、セルビアと共にボスニアを包囲して攻撃した過去を持つ。当然、クロアチアやボスニア系住民の間では許しがたい「敵」であり、会長の一本化を阻んでいる最大の要因とも目されていたからだ。

『ウルトラス 世界最凶のゴール裏ジャーニー』。本書でもユーゴ事情の難しさは数章を割いて詳述されている

■サッカーを政治の文脈と切り離す試み

しかしオシムは、スルプスカ共和国だけに責任を問うようなことはすべきでないと、ボスニアの人々を諭し続ける。さらに地元紙では、頑なな相手の態度を解きほぐすべく、ドデッチに花を持たせるような発言まで行った。

ある意味、オシムが試みたのは、忌まわしい戦争の記憶にとらわれるのではなく前を向いて歩んでいこうと広く訴えかけること、より本質的には、サッカーを政治の文脈と切り離したうえで、もう一度、社会の中で位置づけていく作業だったと言える。

たしかにオシムが担ったのは、直接的には連盟を正常化させる役割だった。だが彼はサッカーを通じて、各民族が真の対話と相互理解を育めるような環境を作り出そうとした。語弊を恐れず述べるなら、オシムはティトーにさえできなかったことを成し遂げようとしたのである。

オシムが試みた「サッカーの非政治化」は、ティトー以降のユーゴにおいて、サッカーが担わされてきた役割を踏まえることで、その意義をより理解することができる

■未来に向かって、再び開かれた扉

正常化委員会の座長に就任して以来、オシムは命を削りながら、政治家や有力者、連盟内部の各グループを相手に説得を重ねた。その苦労は筆舌に尽くしがたいが、彼の努力がようやく結実する瞬間がやってくる。

2011年5月26日、サッカー連盟は会長を一本化する方向でコンセンサスに到達。その4日後、FIFAとUEFAによる制裁は解除され、再び国際試合への参加が認められる。こうしてボスニア代表は最大の危機を回避し、EURO2012予選の後半戦にも参加できるようになったのである。

■ついに訪れた歓喜と涙

結果から述べるならば、ボスニア代表はEURO2012の本大会に駒を進めることはできなかった。だがジェコを中心とする選手たちは、ボスニア代表として国際大会の本大会に名を連ねるという悲願を果たすべく、W杯2014年大会予選で勝ち点を重ねていく。

2013年10月15日、ボスニア代表はW杯予選の最終戦、アウェーでのリトアニア戦に臨む。おそらく緊張のためだろう、選手たちは硬さが目立ったが68分、ジェコのおぜん立てからゴールが生まれ、ボスニアは1-0で先制。最小リードを守り抜き、夢にまで見たブラジル行きの切符をついに手にした。

ホイッスルの瞬間、選手やチーム関係者、そしてサポーターは全身で喜びを爆発させた。オシムは、その光景を見ながら目をしばたたかせ、ハンカチを幾度も顔に押し当てていた。

  (文中敬称略)
  (写真撮影/スライド作成:著者)

前編:#6: ボスニアを襲った新たな危機

次編:#8: なぜサッカーは憎しみを煽るのか


よろしければサポートしていただけますと助かります。頂戴したサポートは、取材費に使用させていただきます。