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未来は常に過去を変えている

「マチネの終わりに」という小説を読んでいる。半分くらいまで来たところだ。明日公開される映画も観たいと思っている。

たった三度出会った人が
誰よりも深く愛した人だった

キャッチコピーにぐっと惹かれ、早く読み切りたいとページをめくっているけれど、読み終わってしまいたくない気もする。天才クラシックギタリストの男性・蒔野と、国際ジャーナリストの女性・洋子の、40代での恋。芸術や生と死、たくさんのテーマと交わり合いながら話が進む。中心となる二人の状況とお互いの気持ちが、読み進めるたびに不安定に揺れる。

序盤、二人が初めて会った日。蒔野のスタッフを交えて食事をしているときに洋子が過去を語るタイミングがある。洋子が小さな頃遊んでいた石で、そのずっと後に、洋子の祖母が頭を打って死んでしまったという話だ。もちろん子どもの頃はそんな悲しい未来を知り得なかったけれど、同じ石が全く違う記憶で上書きされて複雑だ、と洋子は漏らす。

洋子の話を聞いていた蒔野のマネージャーは、洋子のある種の後悔のような思いを全く理解できず、何度も問いかけをする。「対処のしようがなかったことだし、仕方ないんじゃないですか?」「子どもの頃の記憶はまた別なんじゃないですか?未来がわからなくて子供のころ遊んでいて当然な気がしますけど…」洋子もうまく伝えることができない感情について、二人のやりとりを聞いていた蒔野が洋子の補足をするように話した。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

昨日のnoteもそうだし、わたしは過去の話をよくする。自分の障害が、幼い頃から感じていた生きづらさから来ているということもある。カウンセリングでは最近のことより過去のことを話す方が圧倒的に多いかもしれない。

「過去は変えられないから捉えなおして未来を変えよう」

こんなメッセージはインターネットでも本でもよく見かけるし、現実として過去を変えることはできないのは確かだ。でも、「過去のことを考えるのは悪」みたいなニュアンスで語られることに、わたしは心から同意できない。

過去に思いを馳せながら生きることは、そんなに後ろ向きでネガティブなのだろうか。


洋子が小さい頃に遊んでいた石が、ずっとあとで祖母の命を奪うものになってしまったように、わたしにも大きく捉え方が変わったことがある。母との関係だ。わたしが幼い頃の過去の記憶が、事実は同じものなのに今は解釈が大きく違っているものがいくつもある。

幼い頃からわたしは母に憧れていた。物心ついた頃からバリバリ働いて活動的な母。将来わたしもそんな女性になりたいと思っていたから、忙しく働く母があまり家にいないことも仕方ないと思っていた。でも、カウンセリングの中で「本当はもっと母に甘えたかった、わたしは寂しかったんだ」という大きな気付きを得たことがある。

それから母への様々な思いが溢れてきて、過去に自分の抱えていた感情を少しずつ知っていった。母に対して「かっこいい」と思っていた多くのエピソードが、むしろ「なんであのときこうしてくれなかったんだ」という怒りに変わったこともあった。現在の自分の状態と連動するかのように、過去が自分の中で変わっていく。

「今からでもお母さんに甘えればいいじゃない。元気なうちにできることだよ」と友人に言われたことがある。過去にこうできなかったから今こうします、ということは、できることとできないことがあると思う。幼い頃しっかり甘えることができなかったわたしが、大人になった今、甘えるというのはとてもハードルが高い。「甘える」というのは簡単で楽なことのように思われるけれど、とても勇気のいる行動だ。幼い頃に甘えることを我慢していた人には尚更だし、多かれ少なかれ誰にでもあるのではないかと思う。


今、母とは前ほど連絡をとらないし、関係性はかなり変わったかもしれない。母が「バリバリ働いていつも活動的」だったのは、母もまた幼い頃から生きづらさになんとか対抗しようとしてきたからだとも思うようになった。わたしは母のようになれず、ぐずぐずネガティブな自分から抜け出そうと必死だったけれど、わたしたちは表に現れる形が真逆だったのだろう。母もわたしも苦しかったし、過去からの苦しさをそれぞれ見つめる時期に差し掛かっている。

長く必死に頑張ってきた母は今休むことが必要だと思うし、長く引きこもっていたわたしは少しずつ自分自身のやりたいことをして自分を生きようとしている。「母に甘えたかった」と気づいたときから未来に進むにつれて、過去の些細な記憶が急に蘇ったりする。ちゃんと愛されていたと思えることも増えた。それは未来に向かって「もっとこのつらさをやわらげたい」と、過去のことをひたすら考えて書いたり話してきたことが大きかったのではないかと思う。それが結果的に一周回ったような形で未来に繋がる。


「あのとき、もしああだったら」

過去を思い苦しい思いになること、切ない気持ちになること、愛しい気持になること。「マチネの終わりに」の作中でもいくつもそんな描写が出てくる。でもそれでも時間は未来に流れていくし、ずっとここに留まっていたいような思いをした記憶も、生きているからこそだ。胸を引き裂かれるような記憶も、やわらかな毛布みたいになる日が来るかもしれない。



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