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PMSのやり過ごし方と、「自由であること」の重たさ

「私はPMSがひどい」と自覚し、思いがけず職場でもそれをオープンにせざるを得ない状況になってから、早数ヶ月が経った。

今回も、どうもひどいらしい。
午前半休を頂き、様子を見てリモートワークさせてもらうことにした。

次のひどい周期のために、教訓4か条。

  1. 休息を死守(出来れば有休とる)

  2. 家族以外やななるべく会わない

  3. 焦って色々しようとしない

  4. 起床時の感覚や直感を大切にする

以上4つは、経験上絶対にした方が良いことだ。理由は、

  • 他人と接触すると、その時の場面が引き金となり、あらゆるネガティブなパターンの想像をとめどなく続けることになる

  • ただでさえ脳みそのスペックが落ちているのに、そんな事を考え続けてますます処理能力を落とすことになる

  • とんでもない不注意になる時期に、1つでも多くこなそうとすると、かえってミスを誘発して仕事を増やす→自己嫌悪に陥る

  • 「こういうことになりやすい時期です」と言語化して自己開示しておかないと、周りや自分にイライラしているのがダダ漏れて、ただの嫌な人かつ迷惑な人にしかならない→平常時の人間関係に悪影響

  • 感情コントロールが効かなくなっているので、触れる・処理する情報を最小限に抑えてリスクマネジメントしておく

  • こんな状況の私を何とか受け止めてくれるのは家族ぐらいである(よくよく気をつけないとそのうち家族にも見放されそうだけど)

  • 上記すべての理由により、多少身勝手なタイミングだったとしても、PMSがひどい時は休息やスペースを死守すべきだから

という感じだ。

PMSの時は、自分は障害を抱えていると強く思う。
周りに配慮を求め、勇気をもって自己開示し、継続的な困難を抱えながら、それでも日々は続いていく。
環境を最適化しようと努めたり、周囲の助けを必要としながら、理解が及ばない他者やタイミングの悪い出来事に苛立ったり、他責的になったりもする。

多かれ少なかれ、個々人が何らかの課題や生きづらさを抱えつつ、ある場面では無自覚で無配慮な大多数側として、またある時は生きやすい環境を求めるマイノリティとして存在しているのだろうと思う。

自分が権利を求めるとき、同時に他者の権利も保障しなければという責任の重たさも感じるようになった。

病気や育児や加齢を経て、権利の重みのようなものを体感するようになってきたのだが、「欠落感を抱えたまま生きる」ということの覚悟のようなものも、ここに来てやっと出来てきたような気もしている。

このことは私にとって、善人でいようとすることを諦めるということに極めて近い感覚があるし、やむを得ずそれをすることを余儀なくされている感覚もある。

他者の人生にまで想像力が及ぶようになってきたのは、怪我の功名といえるのかもしれない。
感度の鈍い私にとっては、何度も転んで、いくつもケガをすることがなければ、こんなことを身をもって考えることもなかったかもしれないとも思う。

PMSの、身体が思うように動かない時に考えたからこんなことを思うのだろうか。

アイディアを形にするため、書籍代やカフェで作戦を練る資金に充てたいです…