見出し画像

いちぶ と ぜんぶ

いろいろな人と関わる中。
誰かの、新しい一面が見えた時。

「この人、こんな人だったんだ…」と反射的に思いたくなってしまうけれど、

「この人、こんな一面もあったんだ」の方がしっくりくる表現のような気がする。


新しい一面を見た時は。


これまで、その人の一部しか見えていなかっただけ。
知らなかっただけで、その新しい一面も、紛れもなくその人の一部なのだ。

だからこそ。
最初は驚いたり動揺したりするかもしれないけれど、
その一部を、受け入れられるか、受け入れられないか。

どちらにしても、最終的に大切なのは、自分の気持ち。

そして何よりも、
その一部をみて、全部を知った気になってはいけない。と思う。

まだ知らない一部がたくさんあるはずだ。

全部が見えることは、おそらくないような気がする。


さらに

「新しい一面を知れて、嬉しい!」と思う時と
「え、急にどうしたの。こんな一面があるなんて知らない。なんか怖い…」と思う時がある。

それは、何が基準となっているのかわからないけれど、
おそらくその人のことを

「もっと知りたい」か
「これ以上深く関わる気はない」か。

どちらの思いが強いかによって、
感じ方や、言葉を受け取った時の解釈も大きく変わるような気がする。


愛し抜けるポイントひとつ。

すべて知るのは到底無理なのに
僕らはどうして
あくまでなんでも征服したがる
カンペキを追い求め
愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに

イチブトゼンブ / B'z 歌詞抜粋

いつもではないけれど
人と関わって、知らない一面が見えて動揺した時
時々頭の中で自動再生される、この曲。

きっかけはドラマの主題歌だった。

最初は「カッコいい曲だな」とノリノリで歌っていたけれど、歌うには、歌詞を覚える必要がある。
そして、改めて歌詞を読んでみたら。

かっこよく、ロックなメロディーに対し、
なんて優しい言葉の溢れた曲なのだろう。
…と、胸のあたりがじんわりと温かくなったのを覚えている。


それ以来、この曲が頭の中で流れたら、少し心が軽くなるようになった。


愛し抜けるポイントが、ひとつ、あれば良い。


自分だって、欠点だらけなはずだし、
自分の全てを相手に知られているとも思いたくない。

さらに言えば
正直、私は「もっと相手に自分のことを知ってもらいたい」と思うことがあまりないのだ。
会話をする時間を何度も重ねていくことで、徐々にその人のことを知っていき、少しずつ仲を深めていくことが多い。
そして、その過程にかける時間は大切だと思っているため、
時間をかけずに、突然家族のように何でも話せる深い関係になることは難しい。

知ろうとして、知るのではなく
気づけばいつの間にか、お互いに色々なことを知っている…そんな関係。

そうして色々知っても、それもまだほんの一部だ。


その家族や親しい友人など、自分のことをよく知っていてくれる人たちでさえ、自分の全てを知っているはずがない。

それでも周囲の人たちは、長所も短所も含め、性格も知った上で、長く自分と関わってくれている。


時々、知り合ってから日が浅いにも関わらず
「あなたはこういう人間だ。」と決めつけて関わってくる人もいるけれど…
その時は。

「私の何を知ってるの?」と言いたくなるのをグッと堪えて

もしもその決めつけが実際に当たっていたら、
「自分のことをよくわかってくれているんだな。」
と、素直に喜べばいいと思うし

もしも見当違いだったり、補足したくなったりしたら
「この人は私の一部しか知らない。私はまだまだ魅力のある人間だもんね。」
と得意げに、まだ出していない魅力が溢れる人として、自分のことを誇らしく思ってもいいかもしれない。

自分が見る、自分の一部


自分のことでさえ、自分で全てを把握しているとは言い難い。

「あれ、私、こんなものが好きだったんだ」とか
「あれ、私なんでこんな気持ちになるんだろう」とか
「あれ、私なんで泣いているんだろう」とか…。

新しい発見や、自分でもわからないことはたくさんある。
その上、変化していく。
好みや性格など、経験や知識を重ねていくごとに変わっていくものもある。
人を完全にコンプリートすることなど、もはや不可能だと思うのだ。


この記事を書いている過程で
“私は「もっと相手に自分のことを知ってもらいたい」と思うことがあまりない”という、自分の新たな一面を発見した。

そのおかげで、自分の一部についてまた考えるきっかけにもなったし
なぜ「自分を知ってもらいたい」と思う人がいるのか、について考えるようにもなった。

一部を知ることは、視野がほんの少し、広がることに繋がるのかもしれない。


一部が見えたら、
まず、それが全部だと思わないこと。
そんな一面もあるのだと感じた上で、受け入れられるかどうか。
その一部が、自分的にはどうしても受け入れられないポイントだという可能性もある。

しかし

「きっとこの人はこんな人だろう」とか
「おそらくこうするだろうな」とか。

相手を慮ることは大切だけれど、予想はしないようにしたいと思う。
なぜなら、
その“予想”“期待”となって、勝手に裏切られたような気分になってしまっては怖いからだ。


全部は、見えない。

一部がたくさんあって、一人の人。

まるで一枚の、ステンドグラスのようだ。
つぎはぎでも、全然異なる一部がたくさん集まっていても。
離れて全体を見ると、美しい。


全てを知ろうとしなくても

たったひとつ、愛し抜けるポイントを見つけたら。

誰かのことも
自分自身のことも

受け入れやすくなるような気がした。


2023.12.7

この記事が参加している募集

最近の学び

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?