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たいていのことは「マネ」から始まる

「〇〇と言っても過言ではない」という言い回し、けっこう使っている人は多いように感じる。
○○と表現しても言い過ぎではない、大げさではない、という意味合いを「過言」なる単語を使ってまとめ上げる。
普通こんな表現はなかなか出てこないし、独特な雰囲気がある。
これを最初に使った人はほんとに文学的なセンスを持った人だと思ってしまう。
だがこの言い方、テレビなんかを見ていると1日に1回は耳にするくらい頻繁に使われているような気がする。
つまりいつしか生まれ出たこの表現は大衆の間では決まり文句となり、
広くみんなに引用されるようになったんだろう。

メールでは取引相手に対して,
「いつも大変お世話になっております」
なんて挨拶を何の疑問も持たず当たり前のように使っているが、
そもそも「お世話になっています」ってどういう意味なんだろう。
自分みたいなものに対応してくれてありがとうとでも伝えているのか、それとも電話の「もしもし」みたいな枕ことばのような位置づけなのか。
メールを一般に使うようになるまではお目にかかっていないように記憶しているが、
ろくに意味も考えずにほとんどの相手に使っているのだから、
けっこう自分もいい加減なものである。

ことわざや慣用句、中国から伝わった故事成語に対してもそうであるように、
我々は既に使い回されている言葉や文章を
そのときそのときの状況に合わせて引用している。
時代とともに変化する言葉も気がつけばすでに生まれていたものがほとんどで、
使う側は周りに転がっている部品を寄せ集めて、
文章を作り上げているのである。

考えてみれば、文章の言い回しなんかは自分で編み出したものなんてほぼ皆無に等しく、
これまで見たり聞いたりした言葉使いを「マネ」して組み合わせているに過ぎない、
と学生の頃より特に国語が苦手であった自分はこう考えるのであった。

ーーー

初めてカレーの作り方を教えてもらったとき、
野菜や肉を指示されるがままに用意し、ある程度の大きさに切りそろえ、
市販のルーに隠し味なんかを足したりして完成品が出来上がる。
次に作るときはこの工程を「マネ」して、何度もくりかえしているうちにいつしか自分なりの調理ができるようになる。

新しい職場に就くと、早かれ遅かれそこの仕事を覚えなければならない。
先輩に段取りからノウハウまで教えてもらうことになるのだが、
まずはそこの先人のやり方、その場の風習といったものを「マネ」することから始まる。
そして「マネ」ができるようになると、晴れてひとり立ちとあいなる。

その昔自動車というものが日本にやってきてそれを我が国でも作ろうと思いたったとき、
全てのパーツ一つ一つを分解してそのしくみを探求したという。
まずは同じものの作り方を身につけようとしたのであるが、
これも立派な「マネ」だ。

テレビの番組だって欧米で放送されたものがたくさん輸入されたと聞く。
司会者のしぐさそのものまでそっくり「マネ」されたものもあったそうだ。

ーーー

だけど、マネができてある程度形になり、それがいっぱしに完成したところでとどまってしまっては、ホントにただの「マネ」で終わってしまう。
そこから先、いかに自分の個性を積み上げて新たな進化を表していくか、
まさにそれが大切なことであり、真価であると思うのである。

毎回同じカレーを作ることも良いかもしれないが、料理を重ねるごとに具材を変えてみたり調理法を研究したりする。

教えてもらった仕事は永遠と機械的に繰り返すのではなく、創意工夫を加えて生産力を高めたいと思うものである。

自動車はその後日本国内で発展をとげ、世界のトップレベルまでにのし上がった。

今やテレビはネット社会に押され気味ではあるが、
それでも新しい企画が常に誕生し続けている。


最初は「マネ」から始まるのは人間社会の中では当たり前の流れなのだが、
問題はそこからの進化にある。
これを目指すことが最も重要であるといっても過言ではない。

昭和の頃、初めてお茶が自動販売機に登場したとき非常に画期的だと思ったものだ。
でもライバル会社は同じような商品をマネて世に出すのは容易に想像できるわけで、
そこからいかに大衆に受け入れられるものへと進化させていくか、
これが生き残りに結びつき今につながっている。


自分にも「マネ」のその先が、ほしいものである。


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