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日々「たのしく」ありたい・・・

気のせいだろうか、とかく近年は何かをするときに「たのしく」とか「たのしむ」という表現に、たくさん触れられるようになった。
結論からいうと、この精神をモットーとするのは、まったくもって大賛成である。

アスリートが大きな試合に臨む前なんかは、「たのしんで戦ってきたい」といった表現が多くなった。
昔は日の丸を背負って恥ずかしい結果は出せないと、まるで戦場に行くかのような緊迫感があったのだが、そんな緊張感に満ち溢れた雰囲気も今ではあまり感じられない。

役者や芸能人などが映画やドラマがクランクアップし記者発表をする場所なんかでも、現場の雰囲気の良さを口にする機会がめっぽう増えた気がする。
「たのしい現場でした」といった言葉が飛び交い、大御所俳優に委縮したという光景はあまり見られなくなった。

もちろんそれはダラダラとたるんだ精神状態を持っているというわけではなく、
緊張の中にも充実感を伴った高揚感に対して「たのしむ」という表現をしているんだと、見ている側もなんとなく理解ができる。

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街を歩いていても、痴話げんかで眉間にしわを寄せながら重い空気をかもし出している人を見るよりも、
楽しそうに笑いながら明るい雰囲気に包まれている人に触れた方が、こちらとしてもなんだか嬉しくなってくる。

店に入ってカレーの匂いがしたら、ついつい注文してしまう。
目の前を歩いている人が急に横に視線を送ると、思わず同じ方向を見てしまう。
周りにあくびをする人がいると、なぜかそれが移ってしまう。

ちょっと違うかもしれないが、うれしい気持ちも周りに伝染するのは、火を見るよりも明らかな事実である。

日常で毎日同じように繰り返される掃除や家事やゴミ出しといった平凡な行動も、気持ちの持ちよう次第で、それはいかようにも変わってくる。
どうせ同じことをするのなら、楽しく心豊かにこなした方が生活が充実してくるに決まっている。

何気ない生活でも、「たのしさ」を心がけて享受できる人のほうが、”幸福感” を味わえているのではないだろうかと思ってしまう。

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だが、しかしである。

「たのしい」という感情は、ひとそれぞれ程度や内容がことなるのも事実である。
自分側だけに「たのしい」があれば良いなんて、決してあってはならない。

夜中に爆音でバイクを集団で飛ばすのは、自分らは確かに「たのしい」んだろう。
公共のベンチを占領し周りを顧みず大声でワイワイやるのも、その人たちは「たのしい」のかもしれない。
オーバーツーリズムに見られるように、当事者は貴重な時間を使って旅行を満喫している一方で、それによって少なからず不自由さを感じている地元生活者が存在している。

「たのしい」は自分たちだけが持ち合わせる、という形は決してよろしくはない。
周りも含めて「たのしく」ならなければ、全く意味がないものである。


今も世界各地で起こっている紛争や戦争。
攻めていたり勝ったりした方が達成感や満足感を得られているのかもしれないが、
もちろんその始まりの原因にも色々あるものの、
「たのしい」とは全く逆の、この上ない「不幸感」に苛まれているひとは、
まちがいなく大勢いて、そのほとんどが何ら力を持たない一般市民である。

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やっぱり理想は、
「たのしい」が周りに伝染し、価値観が違う中にも、
「たのしい」がみんなで共有できている、
こんな姿ではないだろうか。


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