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「気持ち」しだいで良くも悪くも

洗濯をしたズボンのポケットから百円玉が出てきたら、
なんか非常に得をした気分になったりするものだ。
でもそれがティッシュペーパーだったりしようものなら、
自分の不甲斐なさにいつものことながら意気消沈し、
ボロボロの紙の残骸をゆううつな気分で地道に払い落とすはめになる。

洗濯機に入れる前はきちんと確認しろ! といつも自分に強く言い聞かせているのだが、
まったく改善の兆しは見えてこない。
ましてや酩酊状態におちいっていると、正常な動作などできるはずもない。

これまで色々なものが前ポケットにひそんでいた。
職場でメモに使っていたボールペン。
財布に入れるのを後回しにしたスーパーのレシート。
帰宅したときそのまま収めた玄関のカギ。家に入ったら定位置におさめるだけなのに、なぜか洗濯機の中にズボンもろとも突入してしまうのだった。

だた、このようなモノなら、まだましなのかもしれない。
あるときカッターナイフに気が付いたときには、いささか別の心配が頭をよぎったものである。

銃刀法違反で捕まったりしないか・・・

あらためて調べてみると、
「刃の長さが6センチを超える刃物は、正当な理由なく携帯することが禁止されている」とある。
正当な理由とはなんなのか。
ついうっかりポケットに入っていた、という弁明は、正当な理由として受け入れられるのだろうか。
こちらは作業の流れ上必要となり、そのまま携帯しただけなのに。

「仕事での使用、釣りやキャンプのため、または購入した帰り道などが正当な理由に該当する」。
ますますもって道を歩いているだけのナイフは、犯罪予備軍として疑われてしまいそうだ。

職務質問をされないように、あたりにことさら注意を払いながら、警察の目を逃れなければならないのか。

ーーー

逆の立場からみてみると、
ナイフや包丁はおそらく犯罪を犯すために生まれてきたわけではないだろう。
使いやすさを求められた大きさ形となり、切れ味や機能を追求され、
生産者の技術の粋が尽くされている。

犯罪者はそんなすぐれものを逆用しているのだ。

すぐれた道具を生かすも殺すも、世に役立つ使い方をするのもしないのも、
使う側の在り方次第ということになる。

人を傷つけようという気持ちが伴ったら凶器になるし、
良い料理に活用しようと思ったら素晴らしい道具になる。

それを手にした人間の気持ち次第で、プラスにもマイナスにも化けてしまうということだ。

ーーー

そこに包丁があるから犯罪が起こる、というのはちょっと違うだろう。
そこにお金が置いてあるから、持っていかれても仕方がない、
つまりきちんと管理をしていない方が良くないのだ、という論理は成り立ってほしくない。

「持ち主に届けたい」という気持ちがあったらしかるべきところに届けるだろうし、
「自分のものにしたい」と思ったら何食わぬ顔で持ち帰る。
包丁が置いてあったら、それをどう使うかも気持ちの持ちようである。

考えてみれば、包丁専門店なんかは凶器のかたまりともいえるわけで、
犯罪を犯す気持ちが芽生えたらそこは修羅場と化してしまう。
でもそんなことにならないのは、
間違った方向に向いていない「気持ち」がそこにはみなぎっているからだろう。

暴力にしたって、筋肉やからだがそうさせているわけではない。
気持ちが相手を痛めつけるように操作しているのだ。

車の暴走だって、200キロも出る機能が悪いのではない。
アクセルを踏む運転手が爆発しているのだ。

戦争なんかは、フカン的にみると武器と武器とのぶつかり合いのように思えるが、
政権の上に立つ人間が相手と対立する気持ちになり、
世論を操作して民衆も同じ方向に向かわせ、
ついには指導者の意思でボタンに手をかけ、それまでの歴史を焼き払い、尊い命を奪ってしまう。

武力で均衡を保つのは、お互いに失うものが大きいから行動に移さないのであって、
本当の意味での正常な関係性を築いているわけではない。


平和って、
その大もとは人間の気持ちそのものなんだ
と、改めて気づいたりする。


”一人”  対  ”一人”  の言い争いや痴話げんかなんかは、
小さな小さな、初めの始まりの、
戦争と同じものだと、いつも思う。


自分中心に考えるのではなく、穏やかにすごしたいものである。


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