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アートの深読み3・クールベの「画家のアトリエ」

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天使は描かない

 19世紀後半は「写実主義」がキーワードとなる。ギュスターヴ・クールベ(1819-77)のモットーは「私は天使は描かない」ということだった。背中に羽根の生えた人間は見たことがないからというのが理由だ。目にみえるものしか描かないという宣言である。今までも背中に羽根のある人間など信じないが描いてきた。天使を描かせたかったら背中に羽根の生えた人間を連れてこいというやり取りには、クールベの戦闘的な気性の激しさがうかがえる。

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 クールベの自画像「絶望」(1843-5)[上図]が残されている。端正な美男子であるが、目をむいて激しい表情を浮かべて、見るものに向かって迫ってくる。舞台役者の演技の練習のように芝居がかっていて、鏡を前にして狂気を演じる画家の姿が想像できる。

 写実主義は対象に向かって、客観的な冷静な目を要求するものだ。それをマニュフェストにかかげるにはクールベはあまりにも主観的で、強烈な個性の持主だった。興奮する人を前にして、その人以上に興奮しながら、冷静になれと訴えているような人だったように思う。写実主義であってもなくても、社会が問題にしたのは何を描くかだった。だからクールベを社会主義者とみるフィルターが成り立った。クールベがそれを否定したとするならば、「労働者」も「同性愛」も「波」も「自画像」も同等だったということだ。モチーフが何であれ、共通するものがあるとすれば、それが絵画になる。見えるものしか描かないということは、見えるものならなんでも描くということだ。そうでなければクールベは労働者ばかりを描く社会主義リアリストとなっていただろう。

 芸能レポーターにたとえてみると、すべての時事的事件に反応するジャーナリストの好奇心をそこに認めることができる。それは当時のトレンドとなる新生の職業だった。そこではイズムのフィルターを通して色めがねで見ないことがめざされた。淡々とした語り口は、モノの表層をとらえるが、見るほうはいつもそこに筋書きのないドラマを見つけ出そうとするものだ。その点では新古典主義とロマン主義の否定をも無に帰するものとなる。ただ語り手としてはドライな目をもつニュートラルな、それでいて汎用性のある新人類の誕生だったのだが、一般にはただの変人にしか見えなかったかもしれない。

画家のアトリエ

 目を引くためにいろんな手管を用いながらメッセージを発していく。これがそれ以降の美術運動のスタイルになった。スキャンダルを演出し、あっと驚かせる。美術はもはや美が問題ではなくなってきた。これまでは美を追求するものであった。新古典派のめざす美と、ロマン派がめざす美はちがっていたが、ともに美を問題にしていたはずだ。それが必ずしも美しいものを描く必要がなくなってくる。

 そこからリアルという概念が誕生する。リアルな現実世界は美しいものばかりではない。現実に目を向けろという指示が聞こえる。はきちがえるとのちに社会主義リアリズムが前衛絵画を排斥してしまうことになる。醜いものも含めて、迫ってくるようなものがあると、それは美に置き換え可能な強い要素となる。

 スキャンダルという、話題になるものが重要な役割を果たす。そういう見せかたをあえてしていく。クールベのワンマンショーは話題性のあるパフォーマンスだった。やり口だけでなく、画面に今までになかった新しい試みとして「画家のアトリエ」(1854-5)[フロント図]を展示する。プライベートというにはあまりにも大きすぎ、幅は6メートルもある。クールベ自身が登場し、大画面に描いた集団肖像画といってもよい。

 ダヴィッドの描いた「ナポレオンの戴冠式」(1807)[下図]のように、大勢の人々が集まる絵にはちがいない。中央にはクールベがイーゼルの前に座り、かたわらにはなぜか裸婦がいる。画家が描いているのは風景であり、ヌードモデルと対比をなす。ともにクールベのめざす写実主義の二本柱だが、ヌードは画家のアトリエという断りがなければスキャンダラスな光景だろう。

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 少し深読みをしてみよう。絵の前には純真な少年が描きこまれているが、見あげる視線から興味はクールベが筆を動かす風景画にはなく、裸婦にあることに気づくと、絵はますます通俗的なリアリティを帯びて見え出す。このことはすぐには気がつかない。少年があからさまに裸婦を見ていないという点に、リアリティが加速して見える。

 なぜこんなところに少年がいるのかという疑問が出発点だ。風景と裸婦の選択を強いられているとみれば、となりに描かれた犬が意味をもって見えてくる。並べて子犬を置いているのも、無垢な魂のもつ俗物性をはかりにかけているのだと気づく。犬のじゃれつこうとしているのは、前足のようにもみえるが、犬の好物としての骨のようにもみえる。つまり犬は風景にも裸婦にも興味はない。

 ちらっと横目で盗み見るというのが、クールベのレアリスムの醍醐味である。そんな目でみると画家のアトリエには、よそ見をする落ち着きのない視線が見つかっていく。主要な登場人物はクールベの残した書簡からわかっているが、右端に見向きもせずに読書にふけるのがクールベの支援者のひとりボードレールであるのも暗示的だ。犬と同じく裸婦には興味はない。

 クールベの作品にみる大作主義は、サロン出品を前提とした当時の因習を継承している。ロマン派において新古典主義に対抗するためには、同等のサイズで並列することが条件でもあった。現在ルーヴル美術館に並ぶドラクロワの諸作品は、堂々として新古典主義の画家たちとの同列を主張している。スキャンダラスな光景を驚異的なものにみせるには、プライベートサイズを上回る公的基準に乗り合わせている必要があった。クールベもまたこの事大主義を踏襲した。今ではクールベの意に反しオルセー美術館に展示され、ルーヴル美術館のダヴィッドやドラクロワの大作と並べて見ることはできない。


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