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アートの深読み5・ハマスホイの「室内、床に落ちる陽光」

 デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)の再評価が進んでいる。フェルメールに反応した日本人の目がハマスホイに動じないはずはない。同じ静謐な室内画である。違いがあるとすれば近代の苦悩という点かもしれない。

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 テートギャラリーが収蔵する「室内、床に落ちる陽光」(1906)[上図]では、人のいない窓のある部屋が描かれている。同じ部屋は頻繁に描かれ、後ろ姿の女性を配したものもある。オランダに定番の、向かって左の窓から差し込む光ではない。正面に窓があって、手前の床面に光が落ちている。扉は閉ざされている。少し戸を開いて見せるオランダ画の開放感はここにはない。生活空間ではなく、人が去ったあとの廃屋のはじまりを暗示している。

 近代の苦悩と言ったが、不在と言い直してもよい空虚感の中にその一因を見出してもよいだろう。しかし希望は感じられる。それは窓を通過する光にあるが、ここには奇跡がある。床面に映る窓枠をよく見ると、十字架が埋め込まれているのに気づく。原形の窓を見ても十字架は見えてはこない。実はここに宗教絵画の醍醐味があるのだと、私は見ている。

 十字架は救済のあかしであり、救済はキリストが犠牲になることによって実現する。もちろん神は見えないが、光となって感じ取られるものである。そしてもう一つ秘密があるとすれば、窓と光の関係だろう。ここでの主題は扉と窓と光というモチーフにある。モチーフそのものがテーマとなるのだが、さらに加えればこの三者の関係性が、もっと深い意味を伝えている。

 画家のアトリエは北向きに建てられる。影が動くのを避けるためだ。ハマスホイの描いたこの部屋が北向きだとすると、窓からの光は奇跡の光ということになる。北半球では北側の窓から光が差し込むことはない。奇跡の光とは何かといえば、それはキリスト生誕のことだ。キリストはガラス窓を壊すことなく室内に入り込んでくる奇跡の光である。そんなキリストをここでは正面からとらえているということになる。

 室内を胎内に置き換えたときに、処女懐胎のマリアの秘密に出会うことになる。救世主の訪れを待ちわびる宗教画として、この室内画を読み替えることが可能となるのだ。大聖堂の時代は終わったが、ここにあるのはマリアの胎内を暗示する「閉じられた庭」でもあって、扉は硬く閉ざされているにもかかわらず、奇跡の光はやってくるのである。画家は妻をしばしば後ろ姿[下図]で室内に置いたが、ここでは人物不在だ。

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 しかし人がいないわけではない。いなければこの絵が描けないからだ。これを見つめている画家自身と、この絵を見つめている私たちとの関係が構築される。そして最後に扉と窓と光の関係に想いを馳せると、父と子と精霊という「三位一体」を暗示していることにも気づくのである。

 この解釈には、じつはネタがある。それは中世以来のキリスト教図像学の伝統でもある。ファンアイクは北側の窓から差し込む光を描いているし、デューラーは十字架を窓枠だけではなくて、人の目やクリスタルグラスの中に埋め込んでいる。17世紀のオランダでは静物画でクリスタルの反射に十字架を埋め込むことも多かった。今日の少女マンガで見られる十字に輝く少女の瞳などは、このキリスト教図像学の末裔なのかもしれない。手塚治虫にも頻出していたような気がする。

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 光に目を向けるよりも室内を主役とみると、残された数多くの室内画を通して画家の生活空間の間取り[上図]を描き出すことも、絵画鑑賞の醍醐味になるものだろう。もちろんそれを通してここでの窓が北側ではないことも判明するかもしれないが、絵画の解釈は史実をこえて自由になされるべきものだと私は考えている。この絵が描かれた1906年はもはや写実主義の時代ではなかった。


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