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アートの深読み10・是枝裕和監督の「誰も知らない」

 神戸市西区で6歳の子どもが埋められて遺体で見つかった。母親を含む同居する兄妹たちの犯行だった。現在真相が追求されている。現代という時代の歪みきった人間関係の犠牲になった6年の命に思いを馳せてみる。20年前に制作された是枝裕和監督作品「誰も知らない」(2003)をみたときにも感じた感慨だった。

誰も知らない」(2003)より

 柳楽優弥主演、カンヌ映画祭主演男優賞。英語タイトルはNobody Knows 。最初にことわりが入り、これは実話にもとづくが、フィクションであるとの但し書きが読み取れる。何が起こるのかと身構えることになる。大きな荷物をもって母と息子が引っ越してきてあいさつに出向き、下の階で子どもを小学生だと言って紹介をしている[上図]。部屋に戻ってスーツケースを開くと、なかから子どもが何人も出てきた。これにまず驚くが、いったい何が起こるのだろうかと、目をこらして見ることになる。子どもは計4人、上は12歳、下は5歳、男女がふたりづつである[下図]。

誰も知らない」(2003)より

 母親がみんなを集めて約束をさせている。年長の男の子を除いて、外に出てはいけないことを言い聞かせている。子どもたちは、あたりまえのことのように、指示に従っている。少し会話を聞いていてわかってくるのは、母親は同じだが、父親はそれぞれちがっていることだった。父が同じかもしれないという、あいまいなケースもあった。

誰も知らない」(2003)より

 母親には稼ぎがあって、長男に手渡して、買い物も料理も、家事全般を彼が引き受けている。割合にこぎれいなアパートである。子どもたちは広くなったと喜んでいる。母親の帰りは遅い。酔っ払っているときもある。子どものように無邪気で子どもとよく遊ぶ。子どもの散髪[上図」も引き受けてスキンシップがないわけではないのだが、携帯が鳴って中断され、聞いているとカラオケをしている男友達からのようだった。

誰も知らない」(2003)より

 しばらく出張だと言って、長男に10万円ほどを預けて出て行ってしまう。いつまでたっても帰ってこない。底をついた頃に、長男は出かけて行って、ふたりの父親に事情を話している[上図]。ひとりの父はこちらも家族がいて生活が苦しいと言いながら、わずかなお金を手渡した。もうひとりの父は自分の子どもは元気かと聞いた。そのとき別の子の名を出して、顔は似ているかと聞いたあと、自分の子ではないと否定した。

誰も知らない」(2003)より

 母親がそれぞれの子におみあげをもって帰ってきた。大喜びでもとの生活がしばらく続く。長男に語るには、新しい恋人ができたので、結婚をして、みんなを連れて、もっと大きな家に住むことができそうだというのだ。クリスマスまでには帰ると言いおいて、また出かけてしまう。クリスマスが過ぎても帰ってこない。正月がきて母親からだと偽って、長男は預金を引き出し、お年玉を用意した。5歳になる妹は兄に手を引かれて、はじめての外出をし、買い物をする[上図]。階段で隣人に声をかけられ、兄はとっさに親戚の子が来ているのだと答えた。

誰も知らない」(2003)より

 長男だけは外出をして、世間に接していたが、学校には行っていない。同じ年ごろの二人組とコンビニで知り合い、遊び仲間になる。万引きをするような連中だったが、家に連れてきて、テレビゲームをしはじめた[上図]。母親が帰ってこないとあきらめた頃からだった。妹たちは迷惑そうにしながらも黙って見ている。春が来て桜が咲いている。遊び仲間は中学の制服を着ている。長男が新しいゲームが手に入ったと家に誘うが塾で忙しいからと断られた。

誰も知らない」(2003)より

 貧困を極め、カップラーメンの日々が続く。上の妹がおもちゃのピアノを買い替えるのに残してあったお年玉を、使ってくれともってくる。水道もストップし、公園の水を飲み、洗濯もしている[上図]。たまらなくなって母親の職場に電話をすると退職したことがわかった。現金書留が送られてきたことがあった。その住所から電話番号を聞き出して電話をすると、母親の声だったが、知らない家の名を答えた。長男は何も言えなかった。

誰も知らない」(2003)より

 驚くようなできごとが続くが、家族とは何なのだろうかと考えさせられる。知り合いになったコンビニの店員が、事情を知って警察に相談すればと言う[上図]。それをすれば自分たち4人はばらばらにされてしまうと否定して、前にもそんなことがあったと付け加えている。長男の聡明さが輝きをはなつが、家では小学生国語辞典をかたわらに置いて、自習している[下図]。柳楽優弥がことばすくなだが、みごとに演じている。母親役のYOUのもつ非常識なまでの多弁と聡明さとに対比をなしているようだ。母親に学校に行きたいともらしたことがある。母親はそんなところに行っても賢くはならないと否定した。長女が尋ねたときも同じ答えをしている。

誰も知らない」(2003)より

 何という親だろうかと疑うが、極めつけは、次の衝撃的なセリフだった。「おかあさんは勝手だ」という息子に、「勝手なのはあなたのおとうさんでしょ」と言い返した。そして「おかあさんは幸せになってはいけないの」と付け加えた。一夫一妻制の現代の日本の社会では、まず出てこない発想である。しかし考えてみれば母親のもとで、子どもたちはひとつにまとまっている。卑弥呼の時代にはあったかもしれないし、女王蜂に群がる働きバチの世界では、ふつうの会話なのかもしれない。男女を入れ替えれば、ながらく続いてきた父兄制では、腹違いの兄弟にかわされるセリフでもある。何という親だと、育児放棄のひとことで頭から否定するのでなく、人間存在の原点に立ち返って考えてみる必要がありそうに思う。

誰も知らない」(2003)より

 最後の衝撃は、下の妹がベランダから落ちて死んでしまった[上図]。カップラーメンの容器を鉢植えにして遊んでいてのことだった。スーツケースに死体を詰めて、来た時と同じように運び出し、土に埋めてしまうのである。不登校のいじめられっ子の少女が手伝い、放心状態で早朝の電車に乗っている。タイトルを解釈すれば、「誰も知らない」まま、生まれてきて、死んでしまった5年のいのちということになる。名前はあったが戸籍はなく、学校に通うこともできなかった。存在しないのだから、死体遺棄にさえならないかもしれない。とはいえ私たちは、その愛らしいあどけない姿を、確かに見ていたし、知っていた[下図」。英文名が示すように、ノーボディ・ノウズは否定形ではない。「誰も知らない」ではなく、「誰でもないものが知っている」のである。

誰も知らない」(2003)より

*引用元はこちらのHPを参照ください。

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