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習い事に通えば学びは得られるのか?/流行る習い事と廃れる学び

習い事が流行りすぎて、むしろ、学びは退化したのだと感じています。



普段から言及していますが、従来の習い事、手習いにおいては、そこに師と弟子の関係がありました。

そして師と弟子の関係というのは、お金では「買えない」ものです。


考えてみてください。

「お金を出すから、お前を弟子にしてやろう」なんて、映画やドラマで見たことはないでしょう?

ですから、かつての習い事と今の習い事というのは、別物なんですね。


じゃあ現代の習い事というのは何かというと「取引」なんです。

そう、商取引。


習う方はお金を出す、教える側はその対価として物事を教える、そしてそれをお金によって成立させているわけです。

ということは、習う側は、消費をしているんですね。

何度も書いていますが、消費と学びは、対極にあるもの。正反対の行為なんです。

だから、もう現代の習い事は、かつてのそれのように「学び」は発動しないんですね。


消費の場面を考えてみてください。

売り手がこの商品を売りたい、買い手はそれが欲しい。これは、当然、1対1の関係な訳です。

Aという商品を売りたい商人がいて、Aを欲しいと望む消費者がいて、取引は成立する。このことは、「裏切らない」んですね。商取引では、必要な対価をお金で支払えば、間違いなくそれが手に入る。

しかし、学びというのはそうじゃない。

師と弟子を考えてみるとわかりやすいでしょう。


弟子は師匠から、早く最強の拳法を、例えば「蟷螂拳」を学びたいんだけど、師匠はすぐには稽古をつけてくれない。それどころか、窓を磨くとか、ワックスをかけるとか、よくわからないことばかりさせる。

挙げ句、一緒に出かけた先で、師が突如放り投げた靴を、「拾って来い」と命令される。

弟子としては、全く思い通りにはならないんですね。お金を仲立ちにしていないというのはそういうことなんです。全くもって、1対1の関係なんてないわけです。


実はこの、未規定なもの、未知なるもの、に学びの本質があるのです。

そう、学び手は、「学ぶ前に一体何が学べるのかわからない」というのが、学びの本質なのです。

と、話が長くなりすぎるので、師と弟子の話はこのくらいに留めておきますね。


さて、現代はどうでしょうか。

残念なことに、僕の世代も含め、子育て世代は、消費行動が全ての行動の元となる世界で育ってしまっています。お金の介在しない、学びの場を得ることは非常に難しい世界になっているのです。学びどころか、全瞬間で、お金が介在しない場が失われてしまっているのではないでしょうか。

師匠と弟子なんて、もはや、過去のものです。

消費とお金、ビジネスにおける取引や契約、そういったものが、あらゆる行動の基準になってしまっているのです。

無論、商売やビジネスそれ自体が悪いということではなくて、「それ以外の価値基準で行動する場がほとんどなくなってしまっている」ことが問題なのです。

ネットとスマホ、フリーアム(クリスアンダーソンのあの青い本)が登場し、さらにSNSが一般化した今、子どもたちが、触るもの触れるもの全てが、広告や宣伝といったお金を価値軸にした仕掛けで、満たされてしまいました。


学びが、お金や消費と真逆な行為である以上、それが発動するなんて期待は、ほとんど持てなくなっているわけです。

こんな状況ですから、現代の習い事が、かつての意味での習い事として機能するかどうかは、やはり怪しいのです。



子どもたちが学ぶ。

そしてそれを通じて、成長していく。


こうした、人の学びの過程の本質に注目する時、現代の習い事はその役割を担えないことが見えてきます。

学び手が学びを発動させ、学び続け、成長を得られる場を。

そのことを僕はこの場所で、いつも、考えています。


(おわり)
FB投稿より




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