見出し画像

ご飯が炊けるまで、誰かの生活を覗く。 (ショートショート)


 米といでさ、水入れてさ、炊飯器の中にセットしてさ、『白米』のボタン押してご飯を炊くのよ。だいたい四十分くらいかな。今が十九時だから、炊けるのは十九時四十分くらい。いつもならこの間におかずを作るんだけど、今日は親戚からもらったマグロの刺身があるし、味噌汁は昨日作ったやつが残ってるから、それ温めれば十分。つまり、今日はご飯が炊けるまで暇なわけだ。

 だいたい四十分。何をしようかなって考えて、すぐに思いついたのは「誰かの生活を覗くこと」だった。

 まずはインフルエンサーの遠藤さん。彼女は若者に人気があるらしくて、最近はアイドルまでやっているらしく、とても忙しいらしい。

 僕は目を瞑って、遠藤さんの生活を覗く。でもね、彼女自身は見えない。見えるのは、彼女が見ている景色だけ。

 今は、車の中にいるみたいだ。送迎車にでも乗っているのかな。目の前にはフロントガラスがある。彼女は免許を持っていないから、これは助手席からの映像だろうか。

 誰かが話しかけているのか、彼女の視線が横に動く。ドライバーは、めっちゃイケメン。え、これはもしかして。

 僕は生活を覗くことができるけど、音は聞こえない。もちろん匂いも嗅げない。ただ覗くだけ。だから遠藤さんが見ているドライバーが誰なのか、僕にはわからない。

 やがて目的地に到着したようで、遠藤さんは車から降りた。そして目の前にある建物を見上げる。そこには、ギラギラした光に包まれし、イヤらしい建物が。

 世の中はゴールデンタイムだっていうのに、おそらく遠藤さんだって出ているテレビ番組もあるだろうに。

 僕は目を開けた。もちろん、僕が覗いた生活が証拠になるわけではないから、週刊誌に電話をかける必要もない。これはただの自己満足に過ぎない。それと、僕が生きていく上で何かを選択するときの参考資料になるくらいだ。

 次は品田さんの生活を覗く。品田さんは僕の上司で、最近結婚したらしいけど。

 覗いてみると、目の前にはお洒落な赤ワインがあった。それから白いテーブルクロス、これからコース料理でも運ばれてくるのか。

 ああ、そうか。品田さんは結婚された女性と一緒にディナーへ来ているのか。今日は金曜日。明日は休みだから、二人で一夜を楽しもうと。いいじゃないか。

 しかし、品田さんが視線を向けた相手は、僕の同僚である海原さんだった。クールで、落ち着いていて、だけど、お酒の場では上司に甘える悪魔的な女性。もちろん、品田さんが結婚した相手じゃない。おいおい、これはどうなっているんだ?

 ただ、会話は聞こえない。わかるのは、海原さんが静かに微笑んでいることだけだ。

 僕は品田さんと結婚された女性の写真を思い出した。品田さんはその女性に「俺が幸せにするから」と言ってプロポーズしたらしいけど、早速不幸にしているじゃないか。

 気分が悪くなって、目を開けた。時計を見ると、十九時二十分を少し過ぎている。僕は冷蔵庫に入っていた缶チューハイを取り出して、開けて飲む。レモンの爽快な香りと、喉に通る冷たさが心地よい。しかし勢いよく飲むと、胃まで急降下したアルコールが暴れてしまい、お腹が痛くなる。わかっているのにやってしまう愚かさを僕は憂う。

 ラスト、誰の生活を覗こうか。考えた末に、僕はかつての恋人、メイを浮かべた。

 メイはどうやら外にいるらしく、見えている街はすぐにわかった。彼女は今、渋谷にいる。仕事帰りか、それとも買い物だろうか。

 メイは人混みを避けながら、どこかへ向かっている。どこだろう。渋谷をよく知らない僕は予測できない。

 メイは何かを見上げた。そこはタワーレコード渋谷店だった。それから店に入って、様々なアーティストのブースには目もくれず、一直線でとあるブースへ向かった。

 メイの前には、遠藤さんが出した新曲『明日もキャンディ』がある。メイはそれを一枚手に取って、レジへ向かった。今どきCDを買うくらいだから、よほど好きなのかもしれない。

 ああ、そういえば、僕が彼女と別れたのは、彼女の本音を尊重したからだ。

「やっぱりさ、私は男の人とは付き合えない」

 メイは女性が好きだってことは、なんとなく知っていた。それでも付き合ったのは、お互いに「恋愛すること」に興味があったからだけかもしれない。だけど人間は飽きやすいし、興味を持った物事だっていずれはどうでもよくなったりする。だから僕らは別れた。お互い、後悔はないと思う。

 店を出たメイは、遠藤さんが写っているジャケットに向かって、おそらくキスをした。それからおそらく、自分の家へ帰った。今どきCDプレイヤーに入れて、スピーカーから流れる遠藤さんの音楽を楽しむのだろう。いいじゃないか。メイが幸せなら、それでいいじゃないか。だけど虚しくなるのは、僕が僕であるせいだ。

 ご飯が炊けた音がした。僕は目を開けて、少しだけぬるくなった缶チューハイを飲んだ。なんとなく、アル中になる人間の気持ちがわかる気がした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?