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『骨』  (小説、約14000字)

『骨』



 死因、骨。
 節枝おばあちゃんは、マキオおじいちゃんの死をたった一文字で表した。
「骨」
 僕は畳の床と平行になっているマキオおじいちゃんを見る。いつの日か遠足で行ったときに見た、剥製になった忠犬ハチ公を思い出すような、死んだマキオおじいちゃんの顔。あるいは標本にされた蝶にも見える。マキオおじいちゃんの魂はすでにこの世にあらず。今は抜け殻だけが綺麗に保存されている。少しでも力を入れて表面を触ってしまったら、すぐにでもバラバラになってしまいそうだった。それくらい、中身がないように見えてしまった。死んでしまった人はこんなにも軽そうなのかと僕は思う。
「でも、マキオさんはもう八十八歳だったし、仕方がないのよ。魚の骨が喉に突っ掛かっちゃうのは。あれほど気をつけて食べてねって言ったのにね。噛み砕くこともできなかったみたい」
 とはいえ、最愛の人を亡くしたはずの節枝おばあちゃんは、それほど悲しんでいなかった。しょうがない。その言葉がしっくりくるようで、何度も繰り返していた。
「最後の晩餐が、母さんの焼いたぶりの照り焼きとはな。なんだかんだ、親父は幸せ者だな」
 僕のお父さんは昔からあっけらかんとしている。涙とは無縁の人だった。今だって安堵の笑みを浮かべているくらい、悲しみともかけ離れている。僕はそんなお父さんを少しだけ怖いと感じてしまう。
「そうね。それに、病気で死なないって、幸せなことよ」
 まるで自分を納得させるような節枝おばあちゃんの言葉に、「そうだな。喉に骨が突っかかった瞬間は多少苦しんだかもしれないが、それもまた親父らしいな」とお父さんは深く頷いた。何が親父らしいのか僕にはわからなかったが、節枝おばあちゃんも「そうね」と同意する。その後も二人の会話は卓球のラリーみたくスムーズに進んだ。時々お母さんも頷いて、二人の会話を盛り立てている。そこに僕は入れなかった。
 マキオおじいちゃんの近くにある仏壇で、線香立てに刺さった一本の線香の煙が、ゆっくり、ゆるゆると立ち昇っている。そうか、マキオおじいちゃんは骨によって天国へと旅立っていったのか。そして、それを歓迎する親族たちが周りを囲っている。
「由美子、今週の土曜と日曜は休めそうか?」
 お父さんがお母さんに話を振る顔も、感情の沈みはなく平然としている。
「ええ、大丈夫よ。そもそも、お通夜やお葬式で休めないお店なんて、今の時代あり得ないから」
「それもそうか。お前も大丈夫か、幸人」
 僕にも同じ顔で振ってくる。僕は少し怯えながらも、
「大丈夫だけど」
 と答えた。
「そうか。それはよかった」
「よかったね、マキオさん。みんな来てくれるって。お通夜もお葬式も」
 節枝おばあちゃんの言うことに、マキオおじいちゃんは頷かない。それでも節枝おばあちゃんは涙一つ流さず、にこやかな表情を崩さない。温かいというよりも、冷たいと表現できる笑みを浮かべて。お父さんやお母さんも、一応弔いの気持ちは持っているのかもしれないが、それがまるで表情に現れていない。大人とはそういう生き物なのだろうか。おじいちゃんが死んで悲しいと思う僕がおかしいのか。
 嫌われるようなおじいちゃんではなかったと思う。いや、むしろ好かれていた気がする。多少頑固な一面もあったが、マキオおじいちゃんは筋の通ったカッコいい男だった。だからもっと悲しんだっていいはずなのに。
「マキオさん、もうすぐ行けるからね。やっと、二人になれるね」
「行ける?」
 不思議に思った僕が聞き返すと、節枝おばあちゃんが「そうよ」と言った。
「行けるのよ、大事な場所に」
「大事な場所って、どこなの?」
 ここじゃないの? と思った僕に、節枝おばあちゃんは「北海道よ」と馴染みのない地域を口にした。
「マキオさん、最期は北海道に行きたいって話していたのよ。まあ、それはあくまでも理想だったけどね。私のこともあるし、そもそもこんな歳になって北海道へ行くのは、色々と勇気もいることだったから。だから、せめて死んだら北海道にある墓に埋めてくれってお願いされていたのよ」
「そう、なんだ」
 それから、僕は正直に抱いた感情を口にした。
「おじいちゃんにとっては、ここよりも北海道の方が大事な場所ってことなんだ」
「そういうことだな」
 お父さんも、マキオおじいちゃんの骨が北海道に行くことを認めている。そんな口振りだった。
「色々あるのよ、大人には」
「色々、か。たしかに由美子の言う通りだな、母さん」
「そうね」
 大人とは、そんなに都合よく生きられない生き物なのだろうか。家族がいるところに納骨されないような、複雑さを抱えて生きているのだろうか。
 僕はこの空間に漂っている、大人という生き物がまるで理解できていない。しかし、やがて僕も本当の大人になっていく。高校生から大学生、そして社会人になって、自分で年金などを払っていく。そのとき、僕もまた、今の僕の周りにいるような大人になってしまうのだろうか。悲しむこともしない、無情な人間になってしまうのだろうか。
 なりたくないな、そんな生き物。
「おい、幸人。お前泣いているのか?」
 お父さんに指摘されて、僕は頬に流れた涙を腕で擦る。温かいのか冷たいのかはっきりしない涙が頬に伸ばされていく。僕は悲しい。だから涙が出る。それが普通だと思うのに、周りは泣いていない。だから余計に悲しくなってしまう。
「だって、マキオおじいちゃんが死んじゃって悲しいから。みんなは悲しくないの?」
 マキオおじいちゃんは僕にとって大事な家族であり、憧れの男だった。だから失ってしまえば悲しい。その感情は大人になると消えてしまうのだろうか。
「幸人、お前はまだ子供だな」
 お父さんの呆れ笑いは、春の陽光など忘れてしまうほど、暗くて薄ら寒いものだった。

 僕が住んでいる埼玉県吉川市から、父方の祖父母、つまりマキオおじいちゃんと節枝おばあちゃんが住んでいる越谷市までは、車で三十分ほど、電車とバスだと四十分ほどで到着する。お父さんかお母さんがいるときは車で向かい、僕一人で行くときは電車とバスを使って行く。僕は小さい頃から暇さえあれば祖父母の家を尋ねていて、節枝おばあちゃんはその度手料理を振る舞ってくれた。節枝おばあちゃんが作る料理はどれも砂糖が多めで甘かったが、塩っけが強いお母さんの料理とは一味違って美味しかった。マキオおじいちゃんは料理こそできなかったが、庭で育てたというミニトマトやみかんを僕にくれた。また、競馬で勝つと近くのスーパーで甘いお菓子やアイスを買ってくれることもあった。形は違えど、二人とも孫である僕に何かを恵み続けてくれる存在だった。
 僕が小さい頃は、マキオおじいちゃんも活発で、二人でよく釣りに出かけた。マキオおじいちゃんがニョロニョロしたミミズに針を刺して餌にして、竿を川に垂らしてしばし待つと、濁った川の水面が不自然に揺れて、マキオおじいちゃんが竿を上げれば、そこからピチピチと踊るようにして鯉が登場した。鯉が釣れると、マキオおじいちゃんは必ずと言ってもいいほど、「コイ、それはいつの日も忘れてはならぬ心かもしれない」とひとりごつのだった。幼い僕がその意味を聞いても、「お前にはまだ早い」と言われるだけだったが、今思えばあの「コイ」は「恋」で、鯉と掛け合わせた洒落だったのだろう。しかしそのユーモアを発言したマキオおじいちゃんの顔は、なんともぼやけた顔だった気がする。
 僕が小学校三年生の頃、競馬でも当たったのか、マキオおじいちゃんが僕を近所の定食屋さんへと連れて行ったことがあった。僕はそこで唐揚げ定食を注文し、マキオおじいちゃんは焼き魚定食を注文した。マキオおじいちゃんは昔から焼き魚が好きだった。そのとき二人で向き合ってご飯を食べながら、マキオおじいちゃんが僕に話をしたことがあった。
「幸人、いいか。男って生き物はな、好きな人ができたら上部だけを好きになっちゃいかん。その人の中身までしっかりと好きになれ。それは難しいことかもしれない。だけど、好きという気持ちを永遠に持ちたいなら、そうだな、骨まで愛せ」
 今から思えば、マキオおじいちゃんは好きな人に対しては一途でいなさいというアドバイスだったのかもしれない。ただ、当時の僕からしたら、「骨まで愛せ」の意味がいまいちわからず、しまいには魚の骨にこびりついた身にかぶりつくマキオおじいちゃんの食い意地がなんとも気まずい思いにさせたのだった。それ以降も何度か定食屋へ足を運んだが、マキオおじいちゃんは決まって焼き魚定食を注文して、たしかに骨まで残さず愛するように、こびりついた身を食べていた。挙げ句の果てには、小骨を噛み砕いて食べたこともあった。
「骨、食べちゃって大丈夫なの?」
 少年だった僕は本気で心配したが、マキオおじいちゃんは何故か胸を張って、
「男なら、骨まで食べるのが流儀だ」
 などと意味不明なことを言って、それから高らかに笑っていた。
 きっと、そんな心意気のまま歳を取ってしまい、死ぬ間際も魚の骨にかぶりついたのだろう。骨まで愛すると思いながら。たしかに幸せな死に方かもしれない。だが、それでも死んでしまったことに変わりはない。
 死因、骨。しょうがないと割り切る家族。そんな大人たちと反対に、いつまでも冴えない気持ちを抱く僕。
 お葬式の日まで、僕の心には帯状になった哀情が広がっていた。


 マキオおじいちゃんは、あっけなく骨になった。
 お父さんと節枝おばあちゃんによって、長めの箸でマキオおじいちゃんを摘んで、骨壺に入れていく。これを骨上げというらしい。僕はお母さんや親族たちと、その様子を見守っていた。
「骨になっちゃったんだね、マキオおじいちゃん」
 僕が呟くと、お母さんは「そうねえ」とだけ呟いた。その目はひどく乾いていた。
「おじいちゃん、北海道に行っちゃうんだっけ?」
「うん。それがマキオさんの希望だから」
「北海道って、行ったことないね」
「そうねえ。これからは、毎年じゃないけど何年かに一度はお墓参りに行くかもね」
 北海道。自分が住んでいる埼玉とは、同じ日本ではあるがまるで違う光景が広がっているに違いない。そこでマキオおじいちゃんの魂はゆらゆらと流れながら、きっと美味しいものでも探すのだろうか。
「僕、北海道に行ったら魚が食べたいな」
「そうねえ、美味しいもんねえ、北海道の魚」
「骨まで食べれちゃうような焼き魚が食べたい」
 僕が言うと、お母さんは「焼き魚はもったいないよ」と苦笑して、「私は刺身一択かな。北海道に行ったら新鮮な刺身を食べないと」と言った。



 おじいちゃんが亡くなったのが四月で、今は六月。骨になったおじいちゃんは北海道の小樽という街にある墓に収められたらしい。納骨は四十九日のタイミングでお父さんと節枝おばあちゃんの二人で行ったらしく、僕は立ち会っていないが、お父さんは、
「きちんと納骨したから安心しろよ」
 と無駄な頼もしさを醸し出していた。息子として父親の遺骨を埋めることができて、誇らしい気持ちなのだろうか。
「マキオおじいちゃん、北海道で美味しいもの食べているかな?」
 僕の問いに、
「まあ、小樽だからな。間違いなく美味い魚でも食ってるだろう。ビールだって飲み放題だろうな。まあ、いいところに落ち着いたと思う」
 とお父さんは少々羨ましそうにしながら答えた。
「亡くなった後も望みを聞いてもらえる。マキオおじいちゃんは、家族に愛されていたんだね」
 僕は大人たちも僕と同じような気持ちであってほしいという願望から、そんなことを言ったのかもしれない。
「愛されていたんだろうな。だから今はお望みどおり小樽で眠っているわけだ。俺も親父には感謝しているし、母さんだって父さんのことを愛していた。うん、俺たち家族は良い関係だったと思うぞ」
「そういう関係って、普通じゃないでしょう?」
 すると、お父さんはそれまでの緩い顔を引き締めて、急に報道キャスターみたいな顔になって、
「普通じゃないな」
 と答えた。
「家族って、一番難しい関係だからな。他人なら切り離せるが、家族はそうもいかない。だから悩むし、下手すりゃ崩壊する。だけど、愛があれば何とかなる。たとえ喧嘩しても、仲直りできる。愛ってずいぶんと便利な言葉だし、漠然とした表現方法だが、愛する気持ちはとても大事だ。父さんが母さんを愛していたから、母さんが父さんを愛していたから、俺が生まれたわけだ。そして俺が由美子を愛して、由美子が俺を愛しているからこそ、幸人、お前が生まれている。家族っていう連鎖は、愛によって成り立っているわけだ」
 愛。骨。骨まで愛せる気持ち。
「僕も、お父さんもお母さんもマキオおじいちゃんも節枝おばあちゃんも、みんな大好きだよ」
「俺もだ、幸人」
 お父さんは再び緩い顔になって、付いていたテレビに視線を移した。野球場の華やかな歓声が響き渡る部屋で、僕は思う。
 僕は間違いなく、この家族が好きだ。僕を否定しないお母さん。頼りになるお父さん。いつでも優しい節枝おばあちゃん。亡くなったけど、カッコいいマキオおじいちゃん。僕を取り巻く家族は、ドラマに出てくるような険悪な仲ではなかった。同級生の話を聞くと、無視をする親がいたり、孫を貶すような祖父母がいるらしい。それに比べれば、僕は恵まれていると思う。素直に「好き」と言えるくらいには。
 ただ、「好き」と言っても、僕はお父さんが言う愛の連鎖には入っていない。僕はマキオおじいちゃんが掲げた「骨まで愛せ」が、どうしてもわからない。そし
て、大人たちが語る「愛」の形を知ることができていない。



 学校という場所は、なぜか「恋をすること」を前提に物事が進められている。
「お前、きららちゃんのことが好きなんだろ?」
 同じ卓球部である権藤が、これまた同じ卓球部である榎木に尋問している。
「ってか、きららちゃんのこと嫌いな人いなくね? あんなに可愛いのに、嫌いとかあり得ないだろ!」
 開き直る榎木に、「まあ、それはそうだけどさ」と圧倒される権藤。僕は彼らの脇で水筒に入ったポカリを飲んでいる。
「でも、きららちゃん絶対に彼氏いるよなあ」
「いるだろうなあ。あいつじゃね、サッカー部の長部」
「いや、野球部の長嶋かもな。あいつ、カッコいいからさ」
「イケメンだもんなあ。バスケ部の堂林先輩とかもあり得るかもな」
「わかるわあ」
 学校という場所は、なぜか「好きな人」で盛り上がる。
「なあ、佐藤。お前は?」
 権藤が僕に振ってきて、「好きな人?」と僕が頭で浮かべていたことをそのまま口に出すと、
「そうそう。お前はきららちゃんのこと好きか?」
 と当たり前のように聞いてきた。
「僕は、別に」
「いやいや、あんなに可愛いのに?」
 そもそも、僕は彼女を可愛いとは思ったことがなかった。
「え、もしかしてお前、ブス専?」
 だけど榎木が真面目に質問してくるから、「さあ」と僕は答える。正直、それすらもわかっていない。
「まあ、佐藤ってどこか変なところあるもんなあ。じゃああれだ、三組の鈴木とか好きなんじゃね? あのとびきりブスな女」
「あー、わかる。あいつ性格までブスだからな。救いようねえな」
「そうだ、鈴木と付き合えばいいんじゃね? おい佐藤、鈴木に告れよ」
「そうだな、佐藤が鈴木を救ってやれよ、っておい、佐藤どこ行くんだよ」
 僕はカバンを持ってその場を離れて、体育館ではなく家へと向かう。今日はもう、部活をやる気分じゃなかった。きっと、権藤や榎木は僕をからかい続けるだろう。いじめとは言わないけど、それに近い言葉の暴力を容赦なくふるってくるはずだ。しかし、僕はどうでもいいと思ってしまう。彼らは誰かに恋をする。誰かを好きでありたいと願う。好きな人を言い合うことに興奮する。可愛いとかブスとか、容姿で人を決めつける。それでいい。それが彼らの個性だから。僕には無い、彼らの価値観だから。



 家に帰って、僕は自分の部屋でスマホの電源を入れた。画面をタッチして、ユーチューブのアプリを開く。検索画面で「ま」と文字を打てば、履歴から「槙尾リリア」が引っ張り出される。
 槙尾リリアの最新動画は、昨日の二十二時に上がっていた。僕は今日、これを見るために一日頑張った。
『カードゲーム箱買いして開封したら、衝撃の展開になった!!!』
 僕はその項目をタッチして、動画を再生する。飲料の広告が流れている間にベッドに移動し、寝転がりながら始まるのを待った。
 槙尾リリアは、僕が好きなバーチャルユーチューバーだ。バーチャルユーチューバーは人間でもなく、アニメでもない。三Dアバターと呼ばれるこの存在は、配信者がモーションチャプターをつけて動くことで、立体化したキャラクターも同じように動く。現実でもなく、だからといってフィクションでもなく確実に存在している。僕はこのどちらとも取れない曖昧なバーチャルユーチューバーが好きで、特に槙尾リリアを推している。推すようになったきっかけは、SNSでたまたま槙尾リリアのアカウントを見かけて、僕のおじいちゃんの名前と同じ「マキオ」だったことで親近感が湧き、テキトーに拡散されていた動画を再生したことだった。よく、男女のカップルが成立したときに「ご縁がある」と言ったりするが、まさに僕と槙尾リリアはご縁があった。今では毎日投稿される槙尾リリアの動画を見ることが日課になっている。マキオおじいちゃんが亡くなった日も、火葬された日も、僕は時間を見つけて槙尾リリアの動画を再生していた。
 今まで何かにのめり込むことなどなかったから、槙尾リリアにハマった自分に驚くこともあった。僕がそこまで誰かを好きになるなんて、思ってもみなかった。
『リリアちゃん、今日も可愛いです』
 権藤や榎木がきららちゃんを「可愛い」と言うように、僕は動画のコメント欄に『可愛い』を残した。毎回動画を見終えると、僕は動画のコメント欄に気持ちを書き込む。ストレートに『可愛い』と書き込むこともあれば、『応援しています』と背中を押すコメントを残すこともあった。時間があるときは動画の内容に関しての感想を長文で書くこともあった。槙尾リリアはそれらすべてのコメントに目を通しているらしく、たまに僕のコメントにも、「ありがとう!」と返事が来ていた。それを見るだけで、僕は生きた心地がした。明日もまた頑張ろうと思えるのだ。
 しかし、バーチャルユーチューバーにハマっていることを、親には話していない。いつでも僕のことを認めてくれた親が、バーチャルユーチューバーの存在だけ頑なに認めなかったときが怖いからだ。今まで否定されてこなかった分、僕が一番大切にしている存在を貶されでもしたら、どんな反動が来るか僕自身も想像できない。もしも僕の好きなものが人間なら素直に話したかもしれない。しかし、僕が好きになった存在は、立体化した映像だ。いくら人間が操作しているとはいえ、槙尾リリアは人間ではない。
「だけど、好きという気持ちを永遠に持ちたいなら、そうだな、骨まで愛せ」
 いつの日か、定食屋で焼き魚を食べながらマキオおじいちゃんが放った言葉を思い出す。
「リリアちゃんには、骨があるのかな?」
 しかし、僕の果てしない疑問はゆらゆらと宙に浮かんで、風船みたいにパンと音を立てて破裂した。考えるだけ無駄。どうやらそれが答えらしい。



「幸人、もうすぐ誕生日だな」
 八月。相変わらず状況に関係なく淡々としているお父さんに、僕は「そうだね」と返事をする。
「十四歳か、はやいなあ」
「そうねえ。ちょっと前まで、赤ちゃんだったのに」
 節枝おばあちゃんの冗談とも言えぬ言葉に、すかさず母が、
「そんなことないでしょう」
 と返すが、結局大人たちは、「あっという間だったか」と揃って結論を出した。
「幸人、何か欲しいものはあるか?」
「欲しいもの。うーん、特にはないけど」
「あれはどうだ、サッカーボール」
 お父さんのおそらくふざけた発言に、お母さんは「この子、サッカー好きじゃないわよ」とお母さんがツッコミを入れる。
「そうか。そういえば、幸人は何が好きなんだ? 趣味とかあるのか?」
「趣味、か」
 バーチャルユーチューバーである槙尾リリアの動画を見る。それが今の僕にとっての唯一の趣味だった。
「僕は、そうだね。趣味は、ないかな」
 正直に言えばいいのかもしれない。ただ、あまりにも優しい家族だから、言えなかった。
「あれはどうだ、最近人気のアイドルの写真集」
「それはあなたが欲しいだけでしょう。全く、いい歳して若い子にハマっちゃって」
「しょうがないだろう、可愛いんだからさ」
 苦笑いする僕は、何を欲しているのだろう。権藤がハマっているゲームは煩いから苦手で、榎木がハマっている漫画は無意味に善人が殺されるから嫌い。お父さんみたく若い女性のアイドルが好きなわけでもない。
 ならば、僕が欲しいものは。
「ペンギン」
 南極にいる彼の名を出したとき、大人たち三人の視線は真っ直ぐ僕だけを見ていた。温かくも冷たくもない、不思議な温度の視線だった。
「ペンギン?」
「何、ペンギンって」
「ペンギンか。いや、ペンギンってなんだよ」
 ペンギンは空を飛ばない。だから都合よく逃げることもできない、なんとも残念な鳥。だけどよちよち歩く姿が可愛い。前に槙尾リリアが生配信で好きな動物を聞かれたときに「ペンギン」と答えた上で、そんなことを話していた。
「実は僕、ペンギンが好きなんだ。だから、その、ペンギンのぬいぐるみが欲しい、かな」



 誕生日に水族館で買ってもらった、直径二十センチほどのケープペンギンのぬいぐるみが、今僕のベッドで眠っている。その横で、僕は今日も槙尾リリアの投稿された動画を見ている。
『浜島さん最新作アニメ、めっちゃオススメ!』
 九月。学校では、二つの片想いがくっついた。僕らの学年ではマドンナ的な存在だったきららちゃんが、野球部の長嶋と付き合ったという。どうやら夏休み中に長嶋がきららちゃんに告白したらしい。常に初デートも終えていて、地元の花火大会で二人して浴衣を着て、手を繋いでいる状態で歩いているのを目撃した人が多数いるらしい。
「やっぱ長嶋か」
 権藤が明らかにがっかりしたように言うと、榎木は「どうせイケメンですよ、この世は」と虚しい現実を口にしていた。
「俺ら卓球部なんて、眼中にもないだろうな」
「そらそうよ。最初から決まってんだよ、人生なんて」
 彼らは人間を好きなったせいで傷ついている。見たくもない理想が意外にも近くにあったから、余計な期待を抱いてしまったのだろう。かわいそうだな、と僕は思う。僕みたいに、最初から届かない存在を好きでいた方が、よほど気が楽なのに。
「えー、好きな人ですか? いませんよ、私ぼっちだし。好きな人とか、できたことないし」
 槙尾リリアはいつだって僕のそばにいてくれる。たとえ恋愛関係にならなくとも、彼女が誰かのものになることはない。曖昧な存在だからこそ、誰も掴むことができない。愛など考えることもない。
『リリアちゃん、いつも応援しています。これからもみんなのアイドルでいてください』
 人間の世界では、誰かを好きになることが前提で物事が進んでいく。だからラブストーリーはいくらでも量産される。恋バナは百パーセント盛り上がる。夜な夜な好きな人を聞き合う修学旅行がある。いつでもどこでも、好きな人がいる人間が優位に立つ。恋愛について話していればどうにでもなるという怠慢な考えを持っているから、いつまでたってもその領域から抜け出せない。そして好きになった人に振られるたび、心の傷を増やしていく。
 馬鹿馬鹿しい、と僕は内心思う。人間同士の恋愛なんて、するものじゃない。



 十月。節枝おばあちゃんが急死した。死因は心不全らしい。
「母さん、父さんのことを追いかけたのかな。いや、それはないか」
 骨が浮き出るくらい痩せて、真っ白になった節枝おばあちゃんを目の前にして、お父さんは空っぽな表情だった。
「寿命だったのよ、きっと」
 お母さんも、無色透明な表情をしていて、掴みどころがなかった。
「まあ、そうだな。なんだかんだで母さんも八十四だったからな。立派なもんだよ」
 僕は優しかった節枝おばあちゃんの死を目の当たりにして、やはり悲しくて泣いたが、大人は決して涙を流さなかった。
「ねえ、節枝おばあちゃんも北海道のお墓に入るの?」
 泣き終えた僕が質問する。もしそうなると、北海道へ行く機会が増えそうだ。
 しかしお父さんはすぐに否定して、「いや、母さんは東京のお墓に入るぞ」と呆気なく答えた。
「時期に俺や由美子、そして幸人も入るお墓だ」
「いつも行っている場所よ」
「え、おじいちゃんとおばあちゃん、別々のお墓に入るの?」
 夫婦なのに? 僕の疑問は屈折しない真っ直ぐなものだった。しかし、お父さんはいとも簡単に僕の疑問をへし折った。
「そうだ」
「夫婦なのに?」
「そうだ」
 夫婦なのにどうして? 僕はマキオおじいちゃんが亡くなったときの景色を思い出した。あのときも、お母さんもお父さんも節枝おばあちゃんも泣いていなかった。今回もまた、大人たちはスッキリしている。それが正解だというように、凛とした顔をしていた。
「ねえ、お父さん」
「どうした?」
 お父さんによって真っ白な布をかぶせられた節枝おばあちゃんの前で、お父さんが僕の方を振り向く。
「マキオおじいちゃんと節枝おばあちゃんって、仲が悪かったの?」
 正直、僕は二人が死ぬまでそれに気づけなかった。大人は大人だけの世界で物事を進めていく。だから子供が立ち入ってはいけないことくらい理解していた。だけど、僕が尊敬していたマキオおじいちゃんが邪気にされている気がして、胸の奥がムズムズした。
「仲が悪かった、わけではない。ただ、お前のおじいちゃんは真っ直ぐな人だったんだ。そしてお前のおばあちゃんはそれを許した。それだけだ」
 お父さんは節枝おばあちゃんに背を向けて、コンコンコンと自らの頬骨を三回指で叩いた。それが何かの合図のように、しんとした部屋に響き渡り、お父さんはお母さんを見た。
「幸人も中学生だ。そろそろ話してもいいよな、由美子」
「うん、その方がいいわ」
 それからお父さんは僕の顔をしっかりと見た状態で、言った。
「幸人、お前のおじいちゃんは不倫をしたんだ」
 不倫。染み渡る驚きと、失望。僕は「え、マキオおじいちゃんが?」と聞き返した。
「ああ。お前が生まれるもっと前、たしか二十年前だ」
「二十年も、前」
「私たちが結婚するよりも少し前ね」
「そうだな。二十年前、父さんは出張で北海道へ行ったことがあった。場所は小樽市だった。そして父さんは母さんのためにと、出張最終日にガラス細工の店へ立ち寄った。そこで出会ってしまったんだ。雪さんと」
「雪さん」
 僕が呟くと、「雪さん、マキオおじいちゃんよりも十歳も若かったのよ」とお母さんは無感情で言った。
「父さんは一目惚れしてしまって、その場で仕事で使うメモ紙に自分の電話番号を書いて、接客をしている雪さんに渡したそうだ。よかったら連絡してくださいと一言言って。そこで終わればよかったんだ。だが、雪さんもまた、そんな父さんに心を奪われたらしい。三ヶ月後、二人は再び小樽で会うことになった。もちろん、母さんには内緒だ。それから二人は数ヶ月に一回、小樽でこっそりと会う関係になった。そして会っていくうちに、父さんは雪さんが既婚者であることを知った。しかし、家庭環境がよくないと。だったらいっそ、東京に来ればいい。東京で一緒に暮らそう。父さんはそんな身勝手なことを言った。お互い結婚しているのに、まるで初恋した青年たちの駆け落ちみたいなことをしようとしたんだ」
「でも、できなかったの?」
「できなかった。雪さんは殺されちゃったからね」
 雪さんは旦那によって殺された。雪さんのご遺体が見つかったとき、雪さんの両腕の骨は複雑に折られていて、全身は傷だらけの状態だったという。
「当時、俺と母さん、そして父さんの三人で飯を食いながらニュースを見ていたんだ。そのとき、この事件が報道された。今でも覚えているよ。雪さんという名前が読まれたときの父さんの表情を。箸を床に落として、目を見開いてテレビに近寄った。いや、吸い寄せられていた。そして何度も雪さん、雪さんと名前を呼び続けて、次第にその声はガタガタ震えだして、ついには何度も電話をした。もしもし、雪さん、返事してよ。雪さん、雪さん、と。母さんも俺も、最初は何が起こったのか全くわからなかった。だけど二人とも察しがよかったんだな。慌てて父さんに声をかけることはしなかった。母さんも俺も、きっと雪さんという女性を父さんが愛していたことに気づいたんだと思う。出張だと言って何度も小樽に行っていたし、行くたび小洒落た格好に変身しているし、何より小樽に行くときの父さんは、とてもいきいきしていたんだ。まるで遠足前の子供みたいだったな」
「だから、マキオおじいちゃんは小樽に行きたかったの?」
「ああ。雪さんが亡くなった後、父さんは雪さんの納骨に携わった。そして付いてきた俺に向かって、『俺もここで眠りたい』って断言した。あんなに堂々とした父さんを見るのは初めてだった。だから俺は父さんの願いを叶えることにした。母さんも、反対しなかった」
 僕は大きな勘違いをしていた。おじいちゃんが骨まで愛している存在は、おばあちゃんだと信じていた。だけどおじいちゃんが骨まで愛していた存在は、僕が見たこともない、北の大地でガラス細工を販売していた女性だった。
 家族。この家族は平和だとばかり思い込んでいた。みんな仲が良くて信頼し合っている存在だと本気で感じていた。しかし、それは僕の幻想に過ぎなかったらしい。マキオおじいちゃんは不倫をして、節枝おばあちゃんはそれを黙認して、お父さんは祖父母の骨をバラバラにした。だから、死んでも涙が出ないのか。
「ひどい」
 だから人間同士の恋愛は嫌いなんだ。平気で裏切ってくるし、みんな簡単に嘘をつく。愛の連鎖なんて、ただの綺麗事なんだ。
「ごめんな、幸人。でも、話しておきたかったんだ。本当のことを隠し通したままじゃいけないって思っていたんだ。いずれ、言わないといけないことだったんだよ」
「でも、ショックよね。ごめんね、幸人」
 お父さんもお母さんも無責任に謝る。これが大人だ。
 僕は無言で白い布をかぶせられた節枝おばあちゃんのことへ行き、布を取って穏やかな顔で眠っている節枝おばあちゃんの頬を三回撫でた。それから僕が抱いた疑問を口にした。
「節枝おばあちゃんは、マキオおじいちゃんに骨まで愛してもらえたのかな?」
 それについて、お父さんもお母さんもしばしば口を閉ざしていた。満月の夜。どうにか答えを出そうとしたのか、お父さんは「みんな、愛し合っていたんだよ」とだけ答えた。


10


 家族ってなんだろう。愛するってなんだろう。子供の僕には、いいや、僕だけがわからない。 
 槙尾リリアは「今日は脱出ゲームを実況します」と言って、ゲームの生配信を行なっていた。今回はコラボ企画で、同じバーチャルユーチューバーとして活躍する赤城トモヤと共同でプレイしている。赤城トモヤは男性のバーチャルユーチューバーだが、元々は赤城智也という名前でアイドル活動をしていた芸能人だ。ただ、二年ほど前にファンの女性に手を出したことがバレて芸能界を引退した。それから二年が経った今年、彼は赤城トモヤとしてバーチャルの世界で活動するようになった。賛否両論あるが、彼のカリスマ性はたしかで、いつもより三倍の人数が彼らの配信を見届けている。
「いや、この謎全然解けねえよ。リリア、わかる?」
「私もわかんない! え、時間やばくない!?」
「いやあ、焦れば焦るほど頭回らなくなるな」
 二人の楽しそうな会話を聴きながら、多数の人たちがリアルタイムでコメント欄に書き込んでいく。
『二人とも楽しそう!』
『意外とお似合いだったりして』
『ふざけんなカス。俺のリリアを呼び捨てにすんな』
『リリアって女、あざとすぎてキモい』
 節枝おばあちゃんが火葬されてから一週間。今年は二度も葬式があって大変だなと権藤に言われて、ようやく身内が二人も亡くなったんだという実感が湧いた。マキオおじいちゃんも、節枝おばあちゃんもいない世界。結局、僕はマキオおじいちゃんが言った「骨まで愛せ」の意味がわからないでいる。そしてマキオおじいちゃんが骨まで愛した存在、雪さんのことも、マキオおじいちゃんが雪さんと一緒に眠ることを許した節枝おばあちゃんの心情も、まるで切ないラブストーリーくらいに考えている僕の両親のことも、全部わからないでいる。もし、それが子供だからだとして、成長して大人になったら、今の僕の疑問がすべて解決するのだろうか。真っ直ぐだと思っていたマキオおじいちゃんが不倫していたことも、節枝おばあちゃんの気持ちも、どこか客観視している両親のことも、全部理解して、僕も愛の連鎖とやらに混ざるのだろうか。
 そんなこと、あるかよ。
 誕生日で買ってもらったケープペンギンを床に叩きつけても、何の変化もない。マキオおじいちゃんと節枝おばあちゃんは別々のお墓で眠るという現実も、身内が死んでもケロっとしている両親も、何も変わることがない。権藤や榎木は誰かを好きになるだろうし、きららちゃんと長嶋は中学生らしい愛を育むだろう。
「お、脱出できた! よっしゃ! リリアのおかげだ」
「やったー! めっちゃ嬉しいね、トモヤくん」
 バーチャルを操る二人が恋をして付き合ったとしても、愛の連鎖が続くだけだ。誰かが誰かを愛し、誰かが傷つき、また愛を求める。僕は誰のことも愛せぬまま、やがて骨になる。しかし僕の骨は誰にも砕かれないし、骨上げされて骨壺に入ることもない。僕の骨は僕の形のまま、どこかに転がっている。それを見るケープペンギンは、愛の連鎖に入れなかった僕を哀れに思う。ただ、哀れに思うだけだ。
『死ね』
 死なないはずの存在に放った僕のコメントは、波に飲まれたようにすぐに流されて消えた。


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 十一月。美術の時間で、水彩画を描くことになった。テーマは、『自分にとって一番大切なもの』だった。サッカーボールを描く生徒もいれば、好きなアニメのキャラクターを描く生徒もいた。同じクラスの長嶋は、きららちゃんらしき女性を描いたことで、クラス中から歓喜の声が沸いた。二人のカップルは誰からも好かれ、希望を含んだ星のようにキラキラと輝いている。
 その中で、僕はひっそりと、自分にとって一番大切なものを描いた。ただ、表面上に映る像を描くのは面白くなかった。それから、ありきたりな景色や物を描くことも避けた。だから側から見れば、僕の絵はひどく滑稽に見えたのかもしれない。あるいは奇怪な作品(同じクラスの人間はサルバドール・ダリとも、ピカソとも揶揄してきた)に映ってしまったかもしれない。
 僕が書いたのは、無数の骨の上に立つケープペンギンだった。マキオおじいちゃん、節枝おばあちゃん、雪さん、お父さん、お母さん、権藤、榎木、きららちゃん、長嶋、マキオおじいちゃんが釣った鯉、マキオおじいちゃんに焼き魚定食を提供した店主、ケープペンギンのぬいぐるみを販売していた店員、雪さんを殺した旦那、卓球部の顧問、赤城智也、そして他諸々と、槙尾リリアの中身。彼らの骨は白い砂浜のように粒子となって混ざり合っている。その一方で、描かれた絵の端っこに、僕の形をした骨がある。ケープペンギンはそちらを見ている。ただ、見ているだけだ。
 僕はこの絵に、とてもシンプルなタイトルをつけた。
『骨』
 こうして大人を無視して自我を出せたのは、いったい誰のせいだろうか。

(了)


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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