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パチン!(小説)




 午後二時四十五分になると、地元の防災無線を通じて登下校する子供たちが安全に帰宅できるよう、周りの大人は下校中の子供たちに配慮してあげてほしいといったお願いの放送がかかる。昔、下校しているとき露出魔に遭遇して、それはそれは立派な男根を見せつけられたことがあった。普通なら悲鳴をあげて逃げるだろうけど、私はあまりにも太く、父のそれとは別物だった男根を見て興奮してしまったのだ。じっくりと見つめていると、露出魔は恥ずかしそうにして服で男根を隠し、どこかへ逃げ去ってしまった。
 父の男根は身体に対して虫みたいに小さかった。私はそれが普通だと思っていたが、あのとき出会った露出魔の男根を見たら、私の中にあった概念がギュニョンと捻れて変化してしまった。二十一になった私は数人の男根を見てきたが、やはり父ほど存在感のない男根と出会えることはなかった。久々に見たくなったが、さすがに見せてほしいとは言えない。私は過去に見た父の男根を回顧しながら、これは酷い回想だと一人で笑った。
 ミルクの匂いがしそうな子供の声で注意喚起を促していたが、それが終わると街中はシンとする。都会とは違って、雑音はほとんどない。だからどんな些細な音でも、雑音と捉えることなく、はっきりとした音と認識する。
 先ほどから、私の近くをうろつく飛行物体がいる。サーキットを走るスポーツカーみたいに、近づくと耳障りな音がして、遠く離れると存在すらわからなくなる。それでも存在してしまっていることを知った以上、鬱陶しいからどうにかしたい。
 昔、それこそ男根に何の魅力もない父が顔をしかめて言っていた言葉があって、それは「命を大切に」だった。小さい頃の私はそれを守っていたけれど、大人になって知った残酷な方が生きているのは楽、といった考えに賛同しているから、容赦なく殺生してやろうと考えた。
 私の近くをストーカーみたいに、だけどストーカーにしてはあまりにも堂々と、それこそ親みたいに付きまとってくる蚊を、私は余計に疎ましく感じ、手当たり次第に手を叩いた。
 パチン、パチン、パチン。
 三回目で、微々たる感触だが何かを潰した感触がした。閉じた掌を開くと、ぺちゃんこになった蚊が、汁を出して死んでいた。私は洗面所で石鹸で手を洗って、タオルで拭いた。
 人生、こんなことの繰り返し。結局、弱肉強食。
 再び自室に戻ってきた私は、パソコンを開いて大学のレポートの続きを始めた。


「お父さん、遅いわね」
 午後九時。いつもなら八時過ぎに帰ってくるお父さんが、今日は一向に帰ってこない。母は心配そうに眉をひそめて言った。
「残業しているんじゃないの?」
 だけど、私はそれほど気にしていなかった。満腹なのにチョコレートのアイスを食べながら、ツイッターで情報収集をしている。たわいもない、だけど誰かにとっては重要な情報を無条件に手に入れる。
「事故にでも遭ってないといいけど」
「さすがに事故に遭ったら連絡来るんじゃない?」
「それもそうね。でも、いくらメールをしても返信が来ないのよ」
「携帯を見れない状況とか?」
 しかし、そんな状況が夜に訪れるだろうか。父は電車通勤だから車は運転しない。
 もしかして、浮気?
「電話しても出ないわ」
 今年で結婚してから二十五年が経つ二人の仲は蛙と池くらい相性が合っていて、喧嘩という喧嘩も見たことがない。おしどり夫婦、なんて世の中では言われるみたいだが、二人はそれに当てはまっている。そんな憧憬される関係を粉々に砕けるほど、父は自分勝手ではない。そもそも、父は人を傷つけることが嫌いな平和主義者だ。だから虫が家に入っても決して殺さないし、ワイドショーで戦争の話題になると無念さをあらわにして頭を抱えていた。
 父は、浮気なんてしない。だとすると、母の言う通り何かに巻き込まれたのだろうか。
「なんか、私まで心配になってきちゃったよ」
 私も何度かメールや電話をするが、返事はなかった。


 午後十時。母の元に電話が来た。一瞬父かと思ったが、相手は父の部下である林さんだった。
「あの、夜分遅くにすみません。遠藤さんの奥様ですよね?」
「そうですけど。どうかしましたか?」
「実は、今日の午後から遠藤さんが行方不明になっていまして。午後一で営業に行ったきり、戻ってこないんですよ。いつもなら夕方ごろに戻ってきて報告するはずなのですが、今日に限っては戻ってこなくて。最初はそのまま帰ったのかと思ったのですが、真面目で手を抜かない遠藤さんがそんなことをするとは思えず、何度か電話をしたのですが繋がらなくて。もし、家に帰ってきているのならいいのですが」
 林さんの声は不安定で、ちょっと押しただけで崩れてしまうジェンガみたいだった。不安と緊張と、一抹の怯えが混じっていて、彼の話を聞いている私たちは、いよいよ日常を逸脱してしまったことを悟った。
「主人は、家にも帰ってきていません」
 母が震えた声で言うと、「そう、ですか」と落胆した声が聞こえた。
「何かに巻き込まれてしまったのでしょうか。だとしたら、すぐに警察に通報した方がいいかもしれません」
「そうですよね」
 警察。現実みのない言葉が、私の脳をグラグラ揺らす。未知の世界を歩くような恐怖だけが私を支配する。それを覆うように、どうしようもない絶望感がこの家中を包み込んで、真っ黒にしている。
「私から、警察に連絡します」
「わかりました。もし、遠藤さんから何かあったら連絡します」
「ありがとうございます」
 では。電話が切れて、時計の針だけが動く静かな部屋がはっきりと輪郭を作り、その閉鎖空間に存在する『父のいない』ディストピアに投げ入れられた私たちは、ひどく混乱していた。母はどうしようと泣きながら崩れ落ち、私は宥めながらも真っ暗になった未来を照らす方法さえ思いつかず、ただただ父が無事であることを祈ることしかできなかった。


 一週間経っても、父は戻ってこなかった。警察が捜索しているが、なんの手掛かりも見つからず時が過ぎていくだけだった。
 私も大学を休んで父を探しているが、道行く人に情報を求めても何一つ得られなかった。ツイッターではいつも簡単に膨大な情報を手に入れることができるのに、たった一つの必要な情報は地平線の先にあるのか、永遠に届かない気がした。
 どこにいるんだろう? みんな心配してるよ。早く戻ってきてよ。
 灰色の道端で佇む私を、誰も見ることはしない。静かに透明の涙を流しても、誰も気づくことはない。『父のいない』世界は、虫の鳴き声すら聞こえないほど歪んでいる。


 俺は、どうして飛行する生き物になったのだろうか。
 午後一時。個室トイレに入ったら目眩がして、そのまま便座に座ったところまで覚えている。しかし、次に目を開けたら視界がぼんやりしていて、身体が軽くなった気がした。手を見ると最大限に搾り取られ、骨すら千切りされた大根みたいに細くなっていて、それは足も腹も、おそらく顔も、全てにおいて俺はミクロ化していた。
 何が何だかわからなくなって、身体を持ち上げると宙を浮いた。背中で何かがパタパタ動き、身体は釣られるように上に向かう。
 俺は、飛んでいる。
 全てが理解できないまま、しかし空間を飛べる生き物になった以上、俺は飛んでどこかへ行くしかなかった。
 どこへ行こうか。どこへ行くべきか。いや、そもそも俺はいったい何なんだ?
 小さな羽を動かしながら、俺はトイレを出て会社の通路を渡る。途中で部下の林を見かけたが、声をかけたいと思う気持ちは無情にも小さな鳴き声にしかなからなくて、林は俺の元から離れていくばかりだった。
 俺は、どうするべきか。会社を出て、ギラギラ光る太陽に照らされる街を彷徨えど、答えは出ない。
 羽をはためかせ、人間たちの上を通る。これは、何かの罰だろうか。それとも褒美だろうか。
 とりあえず、家に帰ろう。家に帰って、一旦冷静になろう。この不可思議な現象が夢でないとするなら、俺はどうにかして元の姿に戻る方法を考えるしかない。 
 一時間ほど飛んで、ようやく家に着いた。午後二時三十分。俺は小窓から帰宅して、家中を飛び回る。そして、自室でくつろぐ美玲を見つけた。今日は大学が休みなのか、それともサボったのか。とりあえず、美玲に助けを求めよう。
 いや、しかしどうやって?
 パチン。
 俺はびくりとして、美玲の元から離れた。まさか、美玲は俺を殺そうとしている? 蚊になってしまった俺を、迷いなく仕留めようとしている。ダメだろう、美玲。小さい頃教えただろう。虫を殺生してはならないと。生き物を大事にしなさいと。命を大切にしなさいと。
 パチン。
 それでも、俺を殺すのか? いや、美玲は俺を殺すわけじゃない。蚊だ。美玲は蚊を殺そうとしているだけだ。それは、日常の些細な出来事に過ぎない。きっと明日には忘れてしまうくらい薄くて儚い思い出。
 俺は逃げるべきだろうか。父親だから殺さないでと、逃げるべきだろうか。ただ、俺の身体は思うように動かない。遠くへ行きたいが、行かない。どうやら俺はここで殺生される運命らしい。人間として五十五年生きてきた俺の人生は、随分と呆気なく終焉するという。それも、愛してきた娘の手によって。
 美玲。最後にお前に言いたいことがある。聞こえないかもしれないが聞いてほしい。俺はお前に殺される。もちろん、お前はそのことを知らぬまま、この先も生きていくだろう。しかしそれは、『父がいない』世界を生きることを意味する。お前は突然の不幸に胸を痛め、悲しみを抱える。だから改めてほしい。これを機に、生命を殺さないでほしい。それが、俺の最後の願いだ。
 パチン!

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