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『自分の命日を知る夢』


 私は基本的に疑い深い人間だが、一方でスピリチュアル的な世界を否定しない。基本的には見えるものしか信じないが、見えないものに対して拒絶しない。この世は常にミステリアスで、あらゆる可能性を秘めている。そのうち宇宙人が現れてもおかしくないと思っているし、「あなたの守護霊が見える!」と言われても「嘘だ」と思えない。都市伝説や陰謀論と言われるものだって、「フェイクだ!」と決めつけることはない。もちろん過信することはしないが、それらが嘘である証拠がない限り、切り捨ててはならないと思っている。

 私は自分の夢で自分が死ぬ日、つまり命日を見たことがある。どのようなシチュエーションでその数字を見たのか、数字を見た瞬間の私の反応はどうだったのか、なぜ夢の中で自分が死ぬ日を見る(見るという表現も怪しいが)ことができたのか。まったくわからない。ただ、夢から覚めたとき、夢の内容などほとんど覚えちゃいなかったが、私が死ぬであろう日だけは鮮明に覚えていた。

 2026年2月8日。それが私の命日らしい。

 もちろん、私の勘違いだという可能性も十分ある。もしかしたらその日は私にとって素晴らしい一日になるかもしれないし、何事もない平凡な一日で終わるかもしれない。

 しかし、この日に私が死なないとは限らない。心臓発作で死ぬかもしれないし、車に轢かれて死ぬかもしれない。もしくは大地震が起こって、頭上に鉄骨でも落ちてきて死ぬかもしれない。さすがに死に方までは教えてくれなかったから、回避のしようもないが。まったく、これは呪いの一種かもしれない。

 最近、人生の終わりについて色々と考えることがある。それは自分の命日を知る夢を見たからだけでなく、『死』について興味を持ったからだ。人には様々な死に方がある。病死、事故死、自死、あるいは殺されることもあるかもしれない。死ぬ時間、死ぬ場所、死ぬときに抱く感情、それらは十人十色違っているだろう。だからこそ、不思議に感じてしまうことがある。

 例えばある人が交通事故で死んでしまったとして、なぜその人は交通事故で死ぬことになったのか。もし、それが運命だとして、避けることはできなかったのか。あるいは避けることができたとしても、別の方法によって命を奪われていたのだろうか。どうあがいても、寿命には逆らえないのだろうか。

 子供の頃に川で溺れて亡くなるケースもあれば、成人式の打ち上げで酒の飲み過ぎで急性アルコール中毒になって亡くなるケースもある。かと思えば、百歳になる頃に老衰で亡くなるケースもある。同じ人間なのに、こうも死のタイミングが異なることが、最近は理不尽だと思えてしまう。

 とはいえ、この世は気まぐれで成り立っている。私だって、いつ死ぬかはわからない。本当に2026年2月8日に死ぬかもしれないし、もっと前にコロッと死ぬかもしれない。そんなこと言っておいて、100歳まで生きるかもしれない。すべては神か、仏か、いやいや、そもそも決まっているのか、私には見当もつかないが、人間はどうせ死ぬ。だから毎日を充実させるしかない。ただただ単調な生活を送るだけの人生では生きている意味がない。毎日、どんな些細なことでもいいから新しい発見をしたり、小さな幸せと出会う。そんな人生を送りたい、と思う今日この頃。


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