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『自己都合な想像』


 一月一日に能登半島沖で大きな地震が起こった。僕はそのとき埼玉で仕事をしていたが、それほど大きな揺れを感じなかった。しかし、携帯の緊急地震速報が鳴ったこと、上司が避難を呼びかけたことから、その地震が小さなものではないと知った。

 後々、あの地震は東日本大震災のときと同じく、津波をもたらしたことを知った。火災によって燃えてしまった輪島市街地の映像は、かなり胸が痛んだ。

 一月二日には飛行機と海上保安庁の航空機が衝突し、海上保安庁の航空機に乗っていた五名が亡くなった。どうやら、前日の地震で被災した地域へ向かう予定だったみたいだと聞いたとき、これほどの理不尽や無慈悲はないと感じた。

 火災、事故、体調不良。最近、救急車のサイレンの音をよく聞く。聞かない日なんてなかったと思う。それだけ多くの人が傷ついている。何かと闘い、疲弊している。まだ一月だというのに。 

 世界だってそうだ。ロシアとウクライナ、中東、中国と台湾、韓国と北朝鮮。長年歪みあっていた関係が、崩れ始めている。破壊こそが正義と言わんばかりに、彼らは争いを始める。日本だって他人事じゃない。

 最近は、『平和』なんて存在しないのでは、と思う。それは遥か遠い理想郷でしかなくて、我々が人間である限り、争いは絶えないのではないか、と。旧友が言っていた、「人間は争うために生まれてきたんだ」という言葉も、嘘ではないかもしれない。

 そんな世界を、私は傍観している。輪に入れずただ、見つめている。

 時々、想像することがある。この世界が混沌から抜け出したとして、私は生きているだろうか。もし生きているなら、私は何をしているだろうか。例えば、家族と一緒にもんじゃを食べているだろうか。鎌倉まで小旅行でもしているだろうか。

 しかし想像というのは、あくまでも現在の価値観から予測する未来でしかなく、実際に時が経ってみれば、そこは見違えるほど変わった世界、なんてこともあり得る。ほとんどの人はコロナウイルスが流行るなんて未来を知らなかったし、ジャニーズが無くなるなんて未来を描こうとはしなかったはずだ。想像は、自分の都合に合わせて描かれる夢でしかない。だからこそ愛しいのかもしれないが。

 猫を愛でて一日が終わるくらい、つまらない日常が続く未来が来るなら、少しは期待できるだろうけど。

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