新海誠の性癖は。_
自主制作時代から数えて述べ20年間にも渡りアニメーションを作り続けている新海誠監督だが、ハッキリ言って彼の関心はずっっっと、ただ一点だ。
それは
「君と僕との距離」
これである。
近づいて、でもある事情で離れ離れになって、
もう一度近づくが、今度はすれ違ってしまう。
どうすれば、もう一度君に会えるのか?
いきなり失礼しました。考える犬くんと言います。
突然ですが、僕は新海誠作品が大好き。
会社員時代に監督一人で制作した短編アニメーション「彼女と彼女の猫」にはじまり、最新作「すずめの戸締り」まで全てを視聴しました。
(↓出発点にして至高。「彼女と彼女の猫」)
それだけに飽き足らず、上記の脚本、作画、動画、編集、音を含めた全てを「一人で作る」という手法に憧れ、学生時代には同じように一人で自主アニメーションを作成しました。
どうも!奇人です。(満面の笑みで)
さて、僕がなぜ新海作品を好きかというと、
彼が自主制作時代から一貫して自分の性癖に素直だから。
「自分の性癖を満たすために、自分で作品を作る」
それは、最もピュアな創作のモチベーションではないでしょうか。
そうして出来上がった作品は、作者を写す鏡のような生々しい魅力に満ちていますよね!それがたとえ多少歪んでいても。
世に流通したそれはいずれ、癖(ヘキ)を同じくする同胞の目にとまり、まだ会ったことのない誰かの欲求を満たすことでしょう。
そう。世界には、性癖に忠実なクリエイターが必要なのです。
著しく脱線しました。
話を新海作品に戻します。
※新海作品のネタバレを含みます!未視聴の方はブラウザバック推奨。
…さて、新海作品のフォーマットというのを作ってみた。
↓こんな感じである。
多少の細部は違えど、大きな枠組みでは、ほとんどの新海作品はこのフォーマットに収束すると思う。
彼の作品では、まず「君」と、「僕」と。
2つの点がある。
その2点が、近づいたり、離れたり。
引き離されて、少し近づいて、でもすれ違ったり。
2点間の距離を中心に、物語は進行していく。
さらに言うと、彼の作品描く距離は、物理的な距離だけでない。
上記のように近づいたり離れたりするのは、精神的な距離感も含まれる。
そして物語の途中で、この2つの距離感はリンクし、曖昧になってゆく。
ちょっとわかりにくいので、実際の作品で見てみましょう。
たとえば、「君の名は。」では、性別も生活環境も異なる三葉(=君)と瀧(=僕)が、互いの精神と身体が入れ替わるという奇妙な体験をきっかけに、戸惑いつつも不思議な交流を深めていく。
しかし、入れ替わりはある日突然、途絶える。
困惑した瀧は、入れ替わっていた頃のかすかな記憶を糸口に、三葉の面影を追い求める。
君はどこで、何をしているのか。
どうすれば、君にまた会えるのか。
両者をとりまく環境に目を向けてみると、瀧は東京の高校生。
一方で三葉が住むのは、岐阜県飛騨地方の田舎町。
物語当初から、両者は物理的には途方もなく離れているが、互いに入れ替わるという究極の交流によって、精神的距離はほぼゼロにまで近接している。
しかし、その状況は突然終わる。
「入れ替わり」という、二人の交流は途絶える。
ここから瀧は三葉に近づこうと奮闘するのだが、この頃にはもはや精神的に近づきたい(=入れ替わりたい)のか、物理的に近づきたい(=会いたい)のか、おそらく本人も曖昧になっているのが興味深い。
わからない、わからないけど、
そのどちらでも、今の状況は解決する気がするのである。
だからこそ、祠に奉納された口噛み酒を飲み、
再び三葉の身体に入り込んだ瀧は、その嬉しさで涙するのである。
おっぱい揉みながら。
「君の名は。」の場合、最初から一貫して精神面の距離の話で、「物理的な邂逅は最後まで果たせるのかどうか分からない」という構造が、見る者を焦らす。
フラストレーションを蓄積させる。
だからこそ、ラストシーンでの感情爆発である。
焦らされて焦らされて、からの、脳汁ドバドバ。
我々観客はまんまと新海監督の掌の上である。
さて、「君の名は。」を例に見てきたが、
他の作品も例に漏れず、新海監督が作り出すのは
「君と僕の距離(物理的・精神的)の物語」ばかりである。
さらに、この「距離」というキーワードを介せば、
たとえ様々な設定によって肉付けされていても、
作品の骨組みを浮かび上がらせることができる。
実際にやってみる。↓
…と、こんな感じで。
さて、新海作品について、あと2つほど共通する特徴があるので解説する。
まず、どの物語も共通して、一度は距離の乖離が起こるが、
大抵は一方の(多くは女の子サイドの)外的要因で、二人は離れ離れを余儀なくされる。
新海作品において、君と僕がケンカをして仲違いになる、というのはあまり考えられない。
もっと、二人の手に追えない何か大きすぎる問題があって、それが結果として二人の距離を隔てる。
いつしかこの「大きな問題を解決すること」それ自体がイコールで「二人の再会」に繋がってゆく方向へ話は展開する。
2000年台初頭に多く見られた、いわゆる『セカイ系』と言われる作品群の特徴である。
「セカイ系」とはwikipediaで上記のように解説される作品群で、その代表として「新世紀エヴァンゲリオン」、「最終兵器彼女」、そして新海誠監督の初の劇場公開作品、「ほしのこえ」が挙げられている。
これが1つめの特徴。
もう一つは、この「君」と「僕」は恋人ではない、ということである。
新海作品の全てで、その関係性が定まる前に、「僕」は「君」を失う。
なので二人は恋人同士ではない。あってはならない。
だって仮に恋人同士だったら、「会ってどうしたい」というその先が連想されてしまうでしょうが!!(怒)
「僕」は「君」に、ただ会いたいのである。
会ってどうしたいかは分からない。
ただ、このまま会えなくなるのは嫌だ。
君に、もう一度会いたい。
この、直線的な動機。
そして、離れ離れになっても精神的には両思いという絆こそが、
新海誠作品の純粋性、ジュブナイル性の柱である。
(と同時に、「童貞くさい」と揶揄される理由でもある。)
(こちとらそれが見たくて新海作品を見てるのに…)
(「童貞くさくない作品」って、何…?)
最後に。
その距離感の行き着く先は?という部分、
「物語の結末」について、少しだけ触れる。
実は初期の作品と後期の作品で、エンディングへの向かい方は違う。
近年の作品の多くは、
「ようやく出会えた君と、僕は生きてゆく」
という、希望に満ちたハッピーエンドとも言える終わり方だ。
しかし、実は初期作品の多くは
「君のいない人生を、僕は生きなければいけない」
という別離の結末が多かったのだ。
これは作品を重ねるごとにヒットメーカーとして成熟してきた新海監督が、
「見るものに希望を感じさせる作品とは?」と自問自答したどり着いた、
その一つの答えだと思う。
…ただ、一方で、個人「新海誠」の性癖としては、「別離」を描きたいんだろうな、と思う。
誤解してほしくないのは、別離の方の結末も実は悲壮感に満ちてなくて、
「君と僕は別の道をいく」
「でも心のどこかで、君の存在は僕を勇気付ける」
「君にとっての僕も、そうであったら良い」
という、寂しさの中にも前を向く希望が描かれているのである。
…ただこれ、一般受けはしないだろう。
「綺麗な物語」を極限まで追い求めた結果、
人生の上級者にしかたどり着けない境地に至ってるもの。
より多くの観客に、明確な希望を伝えるために、
自分のやりたいことと、観客の見たいものの折り合い、
バランスを考え、新海誠はエンディングの方向性を定めた。
その結果が、「君の名は。」の爆発的なヒットである。
この一本が打ち立てた数々の興行的偉業。
そしてそれにより、これまで新海作品を知らなかった層に、どれほど本作は届いただろうか。今更ここで語るまでも無いだろう。
これからも彼は、大衆に愛される素晴らしい作品を作り続けるのだろう。
ただ……
どこかで、全てを振り切って監督の性癖を貫いた、
「別離」エンディングの作品を見たい。
そう強く望みます。
待っています。
そんな私の一番好きな作品は、皆さんお察しの通り。
そう、「秒速5センチメートル」です。
さーて、部屋真っ暗にして秒速のDVD見よーっと!
音楽等分析を主なコンテンツとしてブログを運営しております。
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