障害者と「才能」

わたしは今までわりと何でもできるほうだった。
勉強すれば県内トップ2くらいの高校には入れたし、運動も持久走以外はそこそこできて、バレー部にスカウトされた事もあった。習い事のピアノも、コンクールではだいたい入賞はできていてトロフィーをもらうこともあった。
えらいね、すごいね、周りの人がかけてくれる言葉。そのそばで悲しげな顔をするあの子に気づけなかったわたしは幸せだった。


わたしの好きなクリエイターさんたちのなかで精神的な病気を公表されている方は意外と多くいる。そのたびにわたしは思う。

「やめてくれ〜〜〜、!!!!」

あぁ、この人たちは「持っている側」の病人だ。ハンデを背負っていても成功できた、運と才能に恵まれ何より努力できた人たちだ。

みんな言うの。
「病気があるのにすごい」
「障害があるのにすごい」
そうだね。その通りだと思う。嫌味とかじゃない、すごいのは事実だから。
でもそんな光の真下、奈落のような場所でわたしはひっそりと泣いている。
えらいね、すごいね、周りの人がかけてくれた言葉。その言葉だけに縋って息をしていたら、「えらくなくてすごくなくても生きてていい」ということを学び忘れてしまった。

あの日気づけなかった、わたしに「まんぼうちゃんは何でもできるじゃん」と言ったあの子は、わたしだ。

わたしは何でもできるわけじゃない。必死に努力してる。成績をキープするのがどれだけ大変か。偏差値が下がったときの焦燥、毎日毎日の孤独な練習。わたしは何もせずに何でもできるようになったわけじゃない。そんなのは下らない嫉妬だ。まるではねつけるみたいに気にしていなかった。

でも違った。努力をしてもしてもしてもしてもどれだけしても、なれないものもあるんだね。
ようやくわかった。「持たざる者」はこんなに苦しいんだ。
「ハンデがあっても成功している障害者」にばかり目が向けられ「ハンデだけが残って何者にもなれない障害者」の存在は忘れられていく。美化された「ハンデ」のイメージだけが先行して何も持たないわたしとの差について考えてくれる人もいない。

今までちっぽけな優越感にばかり目を向けて、心のどこかで「わたしは特別だ、生きてる価値があるんだ」と思ってなんとかやってきたわたしには、この事実は到底耐えられなかった。

最近の希死念慮の根源はたぶんこれだ。
数日前にYouTubeにアップした「死にたいあなた.死にたいわたし」という動画の中でも、(https://youtu.be/kUROJnSSAHk?si=nlRsG5t7O4j7z8ys)
「生まれてきたからには何か意味があるのだろうけど、わたしは何も生み出せない」
「酸素と食糧を消費するただのゴミ」
と書いてあった。
これじゃあまるで生まれてきた意味を見つけられていない、社会に貢献できていない人間は死ね、という主張じゃないか。

そんなの間違ってる。間違っているとわかる。
だけど、否定できない。どうして?


でも、それに気づけてよかった。同じような苦しみを抱える人に、寄り添えるかもしれないから。
生きてる意味がわからない人に。あなたが生きていいのかは、正直わかんない。それでもわたし、なんにも持ってないしなんにもできないけど、なんとか生きてるよって、伝えたい。
生きてる意味がわからないあなたに、生きてる意味がわからないわたしに、伝えたい。
別に呼吸をするだけでいいじゃん。あなたがこれを読んでるスマホやパソコンを売った人や作った人、その人たちの役に立ってると思うし、何よりここまで読んでくれたならわたしがめちゃくちゃ嬉しい。

才能なんてなくていいよ。強いてあげるなら才能のない人と語り合える才能が欲しいな。
わたしたちなんにもできないね、でも生きるのって楽しいね。いつかそんな風に笑いあおうね。
死なないで、わたし。死なないで、きみも。


でももしかしたらふつーに絶望して死んじゃうかも!そのときはごめんね!

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