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女性はみんなドラァグをしている

「はじめに」

今から書くことはあくまで僕が最近ぼんやり思ったことをまとめたものです。
たまたま男性社会における女性という立場について書きましたが、読む時は色々な役割や社会的立場、別のカテゴライズにも置き換えて考えてみてもらえたらいいなと思います。

その上で、男性達にはもちろん、女性達にこそ伝えたいことでもあります。
当たり前のこととして暮らしている様々な出来事、考え方は本当に当たり前なのかな?と考えるきっかけになったらいいなと思います。

出来る限り誠実に書いたものの、やはり拙いだろうとも思うので
何かさらに議論を深められるような異論、誤りの指摘があれば、教えていただければとても嬉しいです。

それでは、はじまりはじまり

女性服は動くために作られていない

近頃の僕のTwitterタイムラインでは、女性達が様々な素直な疑問や訝りをあらわにしていて、そうだよねと思うことも多ければ、そういう見方もあるのかと勉強になることもある。

Twitterの中では一人一人が目の当たりにする世界が大きく異なると思うので、これは単に僕がこのテーマに興味を持っているというのも大きいだろうけど、やはり誰もが自由に発言できることの利点は「以前は声に出せなかったこと」が他人に届く形で発信されることなのかなと思う。

いままでぼんやり考えていたことをこうやって文字にしようと思ったのは、「この社会ではスーツを着た男性達がマジョリティとしてこの社会をどうするか決めていて、マジョリティであるがために自分は正義だと信じている」という旨のツイートを見て、ああこれか、と思ったのがきっかけだ。
(残念ながらこのツイート見失ってしまったので原文もツイート主もわからなくなりました、すみません…。お心当たりの方教えてください)

また多くの女性達が「女性の服には物を入れられるポケットが付いていない」不便さを度々訴えているし、女性のスーツには弁護士バッヂをつけるところがないとぼやく弁護士の方もいた。

こどものころから好んで異性用の服を着ていた生粋のクロスドレッサーである僕には身に染みてわかる話で、
女性服はしばしば「動きにくく」作られており、様々な日常の行動(腕を振り回したり、走ったりジャンプしたり伸びをしたりすることのほか、拾ったどんぐりや、ボールペン、ハンカチ、名刺を身につけて持ち運ぶことなど)が想定されていないことが非常に多い。

着飾って出かける時の服だけではなく、公園で遊ぶときの子ども服、歩き回って働くときの服でもこうなのだから、不便に感じる人がいても仕方がない。

スーツは男性達の不平等を軽減する制服だった

そもそもスーツの存在が、今の社会では「型にはまった」ある種の「不自由さ」の象徴とさえ感じられている面もあるだろうが、元々はそのために広まったものではないそうだ。

フランス革命の少し前、新興ブルジョアジーがドレスダウンを志向して、階級によるルールに捉われない服装をするようになったのがスーツの原型となったという。
スーツは個々人の背景や貧富の差をさらりと隠してしまうことができる便利な社会の制服だったのだ。
差異のある個人を全体へと均一化し、不平等をなくすという役割があったのである。

(スーツという「制服」による画一化については、僕の母校のかつての総長著書、鷲田清一(2012)「人はなぜ服を着るのか」p.40~42をご参照ください。)

ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4480429905/ref=cm_sw_r_cp_api_i_LrJ4EbGCJH50K

ところがこの時の社会、すなわち差異のある個人の集団とはもちろん「様々な階級の健康な男性」を想定していたから、これらの人達の一般化がある程度進んだ今の日本では、むしろ「健康な男性」と「女性、子ども、健康問題を抱える人々に代表されるマイノリティ」との差異を象徴し、時により強めてしまう存在になったのだろう。

不平等や差別から個人を守れるよう変化したはずの社会の制服が、今となってはその制服を着られない人たちを差別化し、男女不平等の象徴となるなんて皮肉なものである。

男が女を演じると「笑える」?

話は少し逸れて、僕が大好きなテレビ番組、ル・ポールのドラァグレースについて少し語る。

この番組が画期的なのはやはり性的マイノリティのコミュニティ独自の文化をナショナルテレビジョンで放送して、マジョリティを巻き込むブームを起こしたことだ。

ドラァグレースは、ドラァグクイーン達(主に「女装」をして舞台でパフォーマンスを行うゲイの男性達をいう。ドラァグはdressed as girlが起源とも言われている。)が、美しさの他パフォーマンスやコメディを競い合うリアリティショウである。
この番組の中で人を笑わせることができる「パーソナリティ」はとても重要なポイントで、皮肉の応酬で笑いをとることはゲイコミュニティの中でも基本的な要素のひとつであり、番組内のモノマネショウでいかにホストを笑わせられたかが後々勝敗に大きく関わってきたりもする。

僕はこの番組が大好きで、すべてのシーズンはもちろんスピンオフなどまで見てしまったのだが、ふと疑問に思うのは「なぜドラァグはショウになるのに、男装の女性のTVショウはないのか」ということ、そして「なぜ男性が大袈裟に女性を真似するのはコメディになるのに、女性が男装をするのはコメディにならないのか」ということだ。
(念のため言っておくが、もちろんトランス女性・男性のことではないし、あえて笑わせるためのパフォーマンスをすることについてのみ述べている。
またマイノリティが人権を勝ち取っていく上で、多くの場合に笑いが重要な役割を果たすことについてもまた改めて考えたい。とくに予定はないですが。)

男性が女装をするパフォーマンスは、身近にも存在する。
記憶を辿れば僕の修学旅行の出し物では女装コンテストがあったし、テレビ番組では「オネエ」タレントが毎日活躍し、芸能人は度々女装をして笑いを取っている。

では男装の女性はどうだろう。
男装を演じる女性の美しさを楽しむパフォーマンスはちらほら存在する。宝塚歌劇団のような、女性のみで構成する劇団はその一つだ。
「男装の麗人」という言葉もあるが、やはり「美しさ」を女性性の要素としてとらえた言い回しとも言えそうだ。

ところが女性が男装をして笑いを取ることはどれくらいあるだろうか。これはちょっと黙って考え込んでしまう。身近に例が見つからないのだ。
この不均等はどこからくるのだろう。

異質なものとしての女性性

男性が女装をするとき人々はなぜ笑うのだろうか。
またなぜ女装するのは恥ずかしいことなのだろうか。
そして、ドラァグクイーンのショウや「キャバレー」「ストリップ」なんなら「ミスコン」などは盛り上がるのに、男性を鑑賞するショーが同じだけ盛り上がらないのはなぜだろう。

6/12 この文を読んでくれた知人から、「男性性を鑑賞するものとしてボディビルとかあるんじゃないか、外国では男性ストリッパーもいるらしいし。」と言われたのでここに書いておく。
確かにボディビルとか格闘技は男性性を競い合うことが起源なのかもしれないと思うから、そのあたりももう少し勉強してみたいところ。

多くの女性にとって、男装をすることは大して恥ずかしいことではないだろう。
ズボン(おじさんくさいがパンティとの違いをはっきりさせるためあえてズボンと書きます)を履いたことがない女性はいないだろうし、毎日スーツを着る人は多い。最初に述べたように、スーツ自体がもともと男性用の服装であることを思い出して頂きたい。
さらにボーイフレンドフィットなる緩めのシルエットのジーンズが流行ったり、「メンズライク」「マニッシュ」という言葉もある。

「女性的な」という意味をもつ「フェミニン」という言葉が男性服に対してポジティブに使われることは想像しがたいが、女性服に対してマニッシュと言っても単なるスタイルの形容に過ぎない。
学校の制服でもズボンを選べるところが出てきたようだし、ショートカットの女性はたくさんいて、オフィスに居ても誰も気に留めない。
女性にとっても男性服は、普段から着る実用的な服なのである。

それに比べて男性が女性服を着ることは非常に難しいと言っていい。
もちろんサイズの問題で女性服が着られないということも承知している。
だかしかし男性用のスカートがユニクロで買えたとして、笑われたり馬鹿にされたりするのを恐れずに買う人はどのくらいいるだろうか。
また学校や会社で、長髪を指摘された人は多いはずだ。

僕は最初に自分自身は「生粋のクロスドレッサー」だと述べたが、この言葉は通常スカートなどの女性服を着る男性のことを指して使われ、女性をクロスドレッサーと呼ぶことはほとんどない。
異性装をするために境界を超えねばならないのは男性の方だからだ。
スーツを制服とした「社会」が想定している「健康な男性」像から外れるのには、相当の覚悟がいるのである。なぜならそれは、もう制服に守ってもらえなくなるということだから。
そして制服を脱ぎ、異質な姿になった男達を、人は笑う。

多くの人が女性性を恥ずかしいことと捉えているし、また多くの男性が、自分の所属する社会の外にある女性性を消費する対象、つまり笑っていい対象と捉えていることもある。

そんなことないよという女性たち、ぜひもう一度自分の人生を振り返って見てほしい。
女の子らしい仕草を笑われたこと、笑ったことはないか。
フリルのついた服を着るのを恥ずかしいと感じたことはないか。
若い女の子だから、という理由で男性の隣に座らされたことはないか。

これらは皆、女性性を持つこと、表現すること自体が社会の制服を着ていない状態であり、スーツが作った「個人が均一に扱われる社会」の土俵には存在しないからだ。
大げさに言ってしまえば、女性性を持つことは社会の完全な一員としての資格を持たないということなのである。

これはドラァグクイーン達がスターになって、人々が熱狂することの理由の一つでもあるだろう。
「社会」の一般化から漏れてしまったマイノリティの男性達が、合わない制服を脱いで自分のありたい姿を堂々と表現し、「これが自分だ」と宣言する姿。
合わない制服の居心地の悪さを感じてきた世界中の女性を含むあらゆるマイノリティが、共感するのも無理はない。

女性はみんな男装をしているし、女性はみんなドラァグをしている。

先程女性達は日頃から男装をしている、という話をした。これがあくまで男装である所以は、女性には女性装のみしか選択肢がなかった時代、女性が男装を許されない時代があってのことだ。
女性達はこれまでの歴史の中で既に、男性と同様の服を着る権利を少しずつ戦い勝ち取ってきたのであり、男性用の社会の制服であるスーツを女性が着ることは、その象徴でもあると言えるかもしれない。

それなのに、女性用のスーツはこんなにも実用的でないのだから、やるせないなと思う。
皮肉なことに、女性は男装をしながらにしても、ドラァグせざるを得ないのだ。
社会の制服を着なければ土俵に立てないのに、社会の制服を着てなお女性性を突きつけられ、異質なものであることを突き付けられるのが現実なのである。

社会は時代とともに変化する。2020年にもなって、未だに社会が「健康な男性」だけを前提としているわけにはいかないだろう。
女性、子ども、身体的なハンディキャップのある人たち、その他あらゆるマイノリティが存在することを、社会は想定していなければならない。

それは、「女性がいなければ子どもが生まれないから」でもなければ、「ドラァグクイーンが素晴らしいパフォーマーだから」でも決してない。
それぞれの人が、人間だから。それが人権というものである。
あらゆる面で対等でなかろうが、不平等であろうが、全員が同じ人権を持っている。
誰に許されたからでもなく、あなたが存在するだけで、あなたは他の全ての人と同じだけ尊い存在なのである。

冒頭の女性たちの不満のひとつひとつは、個々の努力でなんとかなることも多い。
だからこそ、個々の努力に任せて気付かずにいることはないか、そのせいで、さらに大きな問題を見落としてはいないか。僕たちは目を開き、見守っていかなければならない。

かつてスーツが多くの男性たちを不平等な境遇から助け出した様に、僕たちは今スーツとワンピースの間、革靴とパンプスの間をそっと埋める、新しい概念を必要としているのかもしれない。
そしてこの新しい概念が、次なる「想定外」を生み出さずにすめばいいと思う。
でも僕たちはカテゴリーを生み出さずには生きていけない生き物だから、
せめて時々自分の着る制服を見つめなおして、着心地が良いか、穴が空いていないか、ちゃんと確認する自分でいたいと思う。

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