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スパゲティなムスカ

私のプログラミングは、いや結局、人生哲学も独学 of 独学だ。バグが出れば、Stack Overflow で解決できると信じていた。そしてエラーメッセージも読んでいると思っていた。だからツイッターで「エラーメッセージを読まない人」がいるという指摘の中で、ライブラリーのコードの該当箇所を読みに行かない、という点に自分が該当している事実は受け入れ難かった。「いやメッセージ読んでググってるし、英語読めるし、」と。

BERT の翻訳能力に圧倒され、attention の力を知って、keras を習得しなければという渦中の中で、エラーが出る前からライブラリを読むことになった。そしてエラーメッセージが出た時に、ムスカ大佐になった。

「読める、読めるぞ」

Deep learning は、chainer で一度失敗していて、行列にも苦手意識があったが、コードを読み込むことでエラーメッセージをざっと見ても「あっ、もしかしてこれは、あのことか?」と今までにない検討がついてバグが解消した。そしてムスカ大佐になった。

「読める、読めるぞ!」

役立つ知識の威力は強大なので、知識は重要であることは分かっていた。しかしそこから直線的に「だから勉強しなきゃ」というのには違和感があった。その中で普遍的な数学や物理の力には個人的な信頼があった。ところが現実問題として、数学や物理が出来ることが、人生の役立つことに直結しない場合が多い、一般的に。もちろん、サッカーなどのスポーツの極めて一握りのトップ選手のように、教授職や技術職などはある。全員がトップには慣れない。
私見だが、知識の土台には知性があり、その知性とはネットワークそのものである。知性は生きることを豊かにしてくれる。つまり、困難に立ち向かい克服することで達成感を得られる。残念ながら悪用すると、泥棒のように困難に立ち向かって達成感を得てしまう。ダメ絶対。ムスカ大佐のように独り占めしてはならない。しかし、「読める」という喜びは普遍的であり、その知識を人知として共有することは、社会組織形成に不可欠ではないだろうか。個人がその内側に臓器組織を形成しているように、私達は社会組織の中で生活することを強いられていると言っても過言ではないだろう。住み良い社会は豊かに生きることに等しい。

プログラミング同様にスパゲティな文章になってしまったがムスカが読めるという喜びは社会的な財産ではないか。

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