ニールタウンスナイパー(仮):ショート

 ニールタウン東の丘の向こう、山岳道路を30分程で抜けた先、もはや道と呼べるかどうかも疑わしいダートエリアに突入してさらに30分、ここまで来るともう疑わしいという表現の範囲でどうにか踏ん張っていた“道”という概念は完全に消え失せ、感覚的にそれぞれの見る景色の中の目印をたよりに進むしかない。ものの味方の多様性をどれだけ受け入れ、そこに注意を払っていたとしても大方の見解は、“何もない場所”という他表現が見当たらない。現状そこには何もないということだ。ただ注視すべきは、曖昧ではあっても、かつては一つのエリアとして認識されようもなかったこの場所が、今では何もないエリアとして界隈の住民に認知されつつあるという点だ。

 過去の経緯はなんらかの形で刻まれた記しのおかげで、誰かの目に止まる可能性が生まれる。それもすでに幸運だとして、その幸運の上にさらなる偶然が重なるなどして、場合によっては西方ニールタウンのように、固有の名称に授かることもある。例えば、ニールタウン東の丘に差し掛かる手前、小さな部落に通る一本の道、そこから派生する小道はあるにせよ、多くても3軒程度の民家へのリーチにすぎずーその先はないのだがー、界隈の路地裏に定着しつつあるエリアは、公にはしようもない小声の駆け引きが繰り広げられる静かで悪意に満ちたエリアとして認知され、公式ではないにしても、固有の呼称が輪郭を強調される段階にある。狭間の密談エリア、ラバッシュもその候補の一つだ。位置関係は西から順に、ニールタウン、ラバッシュ、“何もない場所”ということになる。ラバッシュはニールタウンの一部分だ。

 境界はいつでも目に見えて明らかだったり明確な基準が設けられているとは限らない。ここでもそれは同じことだ。朝と夜。境界は太陽の位置がそのおおよそを決める。住民にとって、それは言い換えれば明かりだ。包み込むように全体を照らす明かりは、例えばラバッシュの住民にとっては都合が悪いし、はたまた広場の子供達にとっては、熱中する蹴球の現況把握に大いに役に立つ。どちらも上手く使いこなせるのは、露店の主(あるじ)連中くらいのもので、彼らは、全体であろうが、テーブルの上だけを照らす灯りが複数であろうが、いくらでもやりようはあるといった風に、太陽の角度で入れ替わる客層を乗りこなすのだ。ここでの境界は、朝と夜とでその位置を変えながら退屈に繰り返されている。夜に浮かぶ灯火でひかれたメインストリートの行灯の雰囲気に気を惹かれるのは、来て間もない別大陸からの軍人くらいのもので、住民はというと、あまりに大きくその特性を変える二面性に翻弄されるばかりで、特に周辺地域で紛争が激化するような時には、相当の用心を維持せねばならず、多くの家族を持つ立場のものは皆、長い疲労の時を過ごすことになるのだ。

 明け方、それは細い日差しが町の門の手前にとどまるまでの時間、日中とはラバッシュを含む町全体が均等に照らされる時間を指す。これ以降は、夕暮れも夜も深夜も一括に夜とされる。

 ラバッシュの認知は周辺住民に役割分担に似た概念をもたらした。まだ基準のない新しいエリアの認知は、一人か数名の小規模な認知からはじまるものらしい。それはやがて集団認知に発展する。周囲を未開の地で囲まれたニールタウン周辺では、一部の小さな発見を集団認知に発展させた事例を無意識の中で共有し、それを善、時に快楽と受け止める風潮にあった。これは、言うならば地名をあてがうような公的な同意事項の根本や、後で言うところの決め事の由来に関わるようなことで、このムーブメントー全体の向く矢印ーの向きはまだまだ前進方向でスピードも早い。特に若い世代の男連中には、この上なく刺激的で、若い好奇心を満たすものとして広まっている。
 ムーブメントへのジョイントには、各個人の性格上、早い者もいれば遅い者もいた。過去から未来の方角に向けられた大多数が採用する時間の流れは、早い順に優位に立つ不本質ともいえるシステムを構築する。先人は常に、新参者からの搾取を企てて、それに伝統や文化といった都合のいい解釈をあてがい、定着したその解釈を無知の隙間に注いで、その地位に立つことに勝る幸福はないと、大衆心理をコントロールするのだった。流行範囲は、参加者が町全体のある割合を超えると、無意識のまま大衆レベルの意識へ浸透をはじめ、定着し町社会全体の価値観となる。

 移り変わるというほどの季節らしい季節がないこの地域の毎日のうちで、気候的変化があるとすればそれは朝と夜の気温差だろう。何かの変わり目。変化とともに生まれる物語は多い。

 太陽が山脈の向こうに落ちて、入れ代わり月はちょうど真上といった位置取り。そんな時刻のラバッシュの路地裏に、絵描きの若者が筆を動かし、誰かと誰かの密談に耳を澄ませていた。町のロバを盗みとって、何もない場所の方角へ引っ張っていった友人が、おそらく道に迷い、しばらく行方がわからないということらしい。動物は純粋に、ただ喉の乾きを潤すために水の気配を探すだろう。空腹になれば調理をしない動物の方が 、人間である行方知れずの友人より遥かに有利に命をつなぐであろうことは明白だったが、ここで解決されるべき人間側の問題点は、位置情報がわからないことに違いないと、若い画家は思っていた。そして木組みのベンチの脚の間に置いた革の絵の具入れから、濃いめの青を取り出し、まだ真っ白なカンバスの中心あたりに大きめの丸を描き、それを今度は黒の絵の具で塗りつぶしていった。円の外側から内にいくほど暗くなる。それはまるで、例の何もない場所の開けた一角にポツリと空いた穴だ。ただそこにいる誰一人として、何もない場所に、はたしてそのような穴が存在するかどうかを知る者はいなかった。それでも、ここ地域の誰が見ても、若い画家のカンバスに描かれた謎の丸は穴であり、何もない場所にポツリ口を開いている違いないと思うのだった。

 周辺地域では、遠方他国の利害が入り乱れた遠隔での陣地取りに躍起な連中の紛争が激化しつつあった。それはニールタウンにやってくる軍服姿のニューフェイスの数を見れば明らかだった。戦況は大人の推理力をもってすればある程度察しがついた。例えば入れ代わり立ち代わりやってくる軍人の軍服に統一感があれば、どこかの大国がなんらかの好機に大掛かりな作戦き出ている可能性が高く、逆に十人十色の軍服が入り乱れれば、周辺少国家の有志軍が、大きな力の進行を防ごうと集結している可能性が高い。住民が歓迎しないのは後者の方だ。前者の場合、大国の欲望の矛先は、この周辺地域には向けられておらず、疲れを癒すベースキャンプでしかないからだ。有志軍の戦いは、それに比べて欲望対象エリアとの距離が近い。周辺国家が慌てることは、侵略者がもうすぐそこまでせまっていることを意味していた。事態がこうなるとニールタウンの町は、普段と大きく様子がかわる。朝と夜。宇宙の仕組みで引かれる境界の前後では、女子供の目つきも変わる。

 暴力は暗闇で振りわれることが多かった。それは、この地域に根付く古い思想からくるものだ。今では戦乱絶えぬこの地域でも、本来の思想は暴力を認めないのだ。それ故人々の心理は、周囲の者に、根付いた思想に背く行為を目撃されることを嫌がる。暗闇の暴力は視覚機能を鈍らす分だけ雑になり、時代の狭間で本質を見失うこの地域の思想と同じく、本来の敵を見失いがちになるのだった。

 疲労の時期にたんたんと繰り返される毎日のパターン。大衆にとって勝敗は最後までもつれているように感じるものだった。例え随分前から一方が首の皮一枚の状況であったとしてもだ。後半も残りもう数パーセントの段になってようやく明確になるのが実情であり、それを合図につり上がった目尻は疲労の分だけ垂れ下がる。狭く、早く切り替えなければならなかった視線は、広く、緩く。広角に開放される視界の焦点は遠方だ。遠方を眺める余裕は、後回しに放置せざるを得なかった問題や、より個人的な関心ごとへの対応に人々を向かわせるがスピード感はない。それは、何もない場所で消息を断った盗まれたロバが、盗人を置き去りにしてきたことにも気づかぬままノラリと町へ帰ってくる速度に近い。多くの民衆がそれぞれの想いにふけりながら眺める遠方の山々。それより随分手前の町の入口から、絵の通りノラリと入場したロバの背には盗人がぐったり、今にも途切れそうな呼吸であっても、人々はあまりにも想定外の生還劇に気をとられるばかりで、水を汲もうとする案さえすぐには浮かばないであろうことは、実はあの夜謎の穴ボコを描いていた若い絵描きには、噂を盗み聞いたあの夜の地点ですでに想定の範囲のことだった。
 行方不明者が生還した今、絵描きの思考は新たな局面に差し掛かる。自身のみが知る予知の事実を、他の誰かに伝えることの意義だ。そして結論をまたず強く思うのだ。伝えるとするならば、手段に言葉は適さない。その理由は絵描きがまだ若いからに違いない。ただ、明確にすべきことは、そう理由づけたのは町の長老ではなく、健全に命をつなぎ、何くわぬ顔でノラリ生還したロバだということだろう。


そういう風に周辺地域は、消耗と休息のルーチンを守るとして、

ロバはロバで、我関せずとばかりに、それこそノラリと乾草をほうばるとする。

 同一世界に流れる二つの空気を俯瞰で描くことができるとすれば、歳を重ねた絵描きの若き日の記憶に違いない。

 その頃には今はまだ名も無いエリア “何もない場所” にも、
東方ニールタウンのように、固有の呼称が与えられるかもしれない。


とりあえず今ここにあるのは、それくらいのはなしだ。

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