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父と関心とビールの話

私のお仕事は、比較的ではありますがクラスターが発生しやすい業種です。幸いにもうちの職場でクラスターは一度も発生してないのですが、同業の他のとこでクラスター発生、というニュースはちょこちょこと報道されます。

そんなニュースが報道される度、離れて暮らす父からクラスター発生したらしいが大丈夫かーと心配のLINEが飛んできます。その度にうちではないから大丈夫よーと返す。すっかり馴染みのやり取りになりました。どんな異色の状況でも一年経つと人は慣れていくものですね。そんなに頻繁にLINEはしないのですが、ニュースが立て続くと心配LINEの一週間後にまた心配LINE、なんてこともあって、そんなに心配せんでも大丈夫やて、と思ったりします。

そんなに気にしすぎなくて大丈夫だよ、という相手を気遣う気持ち半分と。こんなに来るとちょっと鬱陶しいな、という素直な本音半分と。

あんまり自覚のなかったこの『鬱陶しいな』に気づいた時、あれ、と思いました。そんな風に思うようになったんだ。こういうのこそがどうしようもなく欲しかった時期だって、あったのに。


子どもの頃。というか、本当にごく最近までずっと。父は私に無関心なのだと、私は思っていました。

父は趣味がたくさんある人間で、遊ぶのが大好きな人間で、一人の時間が必要で大切な人間でした。そのため仕事を終えるとすぐ自室に籠って趣味の時間に耽ります。世の中のお父さんがどのぐらい家族と過ごすのか喋るのかわかりませんが、私目線ではそういうのがかなり少なめな父親、でした。

怒られた経験はほとんどありません。やれ態度だ服装だ進路だ、そういうものに口を出された事もありません。その代わり、学校どうなの?とか気にかけられた事もありません。ないと思う。私が忘れてなければ、だけど。一緒に暮らしているけど接点は少な目で、別の生活サイクルを生きていて、そこそこの距離がいつもある父。親というより、同居している他人みたい。ずっとそう思ってました。

そこに加えて母が繰り返していた言葉もありました。父とは打って変わって、子ども達の世話に人生全てを注いでいた母。私を厳密に管理して、私の全てを掌握して、こっちへ進めもっと頑張れと指揮官のようだった母。そんな母が私達に繰り返し聞かせる言葉がありました。「父はあんた達なんて関心がない」「小さい頃は可愛かったけど、だんだん大きくなったら可愛くなくなってきたんだ」「だけど私だけはあんた達を見捨てない」「最後まであんた達の味方でいるのは、あんた達を守るのは、私だけなんだ」

今思うととんでもねぇこと言うなぁと思うし、それを平気で子どもに言っちゃう精神の人間は絶対信頼したらあかんやつ。ついでに言うと大人になって人生の危機に立たされた時があったんですが母からは割と見捨てられましたし守られませんでした。ですが当時は子ども。親という存在はとても大きくて、疑いません。心の奥底では疑っているんだけど。その不信を認めるのが怖くて蓋をするのです。拠り所にしていたいから。絶対に信じられる存在がほしいから。絶対に信じられる唯一の存在が家族なのだと刷り込まれているから。それが普通だと思っているから。普通の子どもで、いたいから。だから母の言うことを私は信じていきました。父は私に関心がない。それは何故か。脳裏をよぎるのは父が大好きなたくさんの趣味達。答えはすぐに出ました。私はそれらよりも『面白くない存在』だからだと。父と私の間にある距離感や接点の少なさは、母の言葉を毎日毎日、私の中で裏付けていったのです。母の言葉は母の見解としてではなく、私の中で、当然の事実として扱われていくようになりました。

私はそのまま大人になって、時が経ちました。父と母は離婚をし、同時期に私は心と身体を壊し、働けなくなって仕事をクビになりました。療養をしようと医者に勧められ、一人暮らしは続けたままで、父から生活費を貰いながら生活する事になりました。その間父から度々LINEがありました。「会って話したい」、と。

その理由が私にはわかりませんでした。関心なんてないはずの私に会ってどうするんだと。まず思い付いたのは夜逃げするように離婚した母の事でした。実家で母と妹と三人暮らしをしていた父は母に逃げられて急にひとりぼっちになったから、その寂しさを私で埋めようとしているんだと。ばかにするな、と怒りが湧いて、なにがなんでも会おうとしませんでした。

ですが治療を始めて3、4年経った頃。どういう訳か自分でもわからないのですが、会ってみようかな、と思うようになりました。それは多分治療を通して、これまで自分が常識だ事実だと思っていたことが母からの洗脳でしかなかった、という気づきをたくさんした事に繋がっていて。初めてあの言葉に疑いの目を向けたのです。「父はあんた達なんて関心がない」。本当にそうか?と、初めて思いました。本当に関心のない人が、こんなに何年も、決して安くはない生活費を、支え続けてくれるだろうか。現に母は一円も支援しないどころか、離婚して収入がなくなったから私は支えれないからね早く回復しろ早く安心させろ、などと言っているのに。

そうして、会ってみました。自分も友人と何度か行ったことのある、全席喫煙可のアイリッシュパブで。アルコールを口にできる店を選んだ事は偶然でしたが今思えば大正解でした。……いざ話してみれば、誤解と気のせいのオンパレードでした。父はあの距離からでも私の事を父なりに見ていました。口は出さずとも気にかけていました。幼い頃の私の様子も、あれこれとよく覚えていました。嘘や虚飾でないことは、話しぶりからよくわかります。私の中でするすると何かが溶けていくのがわかりました。なんだぁ。こんな数時間話し合うだけで、溶けてしまうものだったんだ。20数年抱えた私の諦観。だけどこんなに遠回りした自分のことを馬鹿だとは思いません。きっとこの遠回りがなければこの日に至れなかったでしょう。自分を助けてくれるのは自分だけだと諦めきってたからこそ、自力で病院を探して治療を始められたこと。治療を通して、自分の常識に潜む刷り込みや洗脳に気づけたこと。幼い頃の父と私の距離感は、大人と大人ならちょうどよくても、親と子には少し遠くて、だけどお互い色んなものが絡まって近寄れなくて。遠回りをしたからこそ、一歩が踏めた。一歩だけ近づけた。そんな風に思います。頼んだビールをちびちび飲む私を見て、お前ビール飲めるのか、と父は少し嬉しそうに驚いていました。そうだよ、と私は可笑しくて笑いました。そんなことに今更気づくような距離感だったのです、今まで。


そんなこんなでやっと得た『心配』なのに、今度は鬱陶しく思うなんて。自分でも自分の贅沢さに笑ってしまいます。でも、贅沢言うなちゃんと感謝しろ、とは自分に対して思いません。鬱陶しく思うのは、不安がない事の裏返しじゃないかなと思うからです。父は私に無関心じゃないこと。気にかけていたい相手なのだということ。自分は父にとってそういう存在なのだということ。それを今は素直に信じています、不安なく。だから気にかけられていちいち嬉しいなんてなるはずもなく。あーはいはい、となる訳です。やや鬱陶しい、でもありがとね。それが本音。私は、今の距離感が好きです。

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