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他者視点で振り返ったら愛らしく感じられたこと。山の上の宿坊にて。

先日、千葉県鴨川市にある大本山 清澄寺の宿坊に一泊してきました。清澄寺は千葉で三番目に標高の高い清澄山(主峰妙見山)の山頂付近にあります。

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日蓮宗の開祖である日蓮聖人は12歳の時に山へ入り道善法師に師事、鎌倉・比叡山・高野山などで勉学修行に励み、32歳でこの清澄寺境内にある旭が森で立教開宗の第一声をあげたとされます。この20年もの修業期間、一体どういった心境であったのかまではさすがに想像もつきませんでしたが、宿坊にて一人心静かにお写経やお勤めをさせていただき、自分自身の半生について振り返り、これまで関係いただいたたくさんの方々へあらためての感謝、そして皆の健康と幸福に思いを馳せる・・・、とても尊い時間を過ごすことができました。

特に静かな宿坊での夜の半生振り返りがとても良かったので、記憶が薄れないよう日記風に書き残しておきたいと思います。

清澄寺オフィシャル動画はこちら

仁王門

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清澄寺の入り口である仁王門。文久3年(1863)に建てられたもので左右には金剛力士像。 右の口を開けている阿像(那羅延金剛)は一切の法の最初を表し、左の口を閉じている吽像(密迹金剛)は一切の法の窮極を表しています。

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顔は怖いですが手がなんだか可愛らしかったです。

本堂

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本堂摩尼殿は大堂とも呼ばれ、度重なる改修を繰り返し、現在の摩尼殿は17世紀後半のもの。お堂の中央には虚空蔵菩薩、その両側には日天子、月天子を祀る。虚空蔵菩薩は、智慧と福徳を人々に授ける菩薩とされ、左手に持っている宝珠は智慧と福徳の象徴。日蓮聖人も幼少の時より、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」と願をかけ、ある時虚空蔵菩薩が聖人の前に高僧となって現れ智慧の宝珠を与えられたとされます。

千年杉(清澄の大スギ)

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大正13年に国の天然記念物に指定。高さ約47メートルで幹周りは約15メートルあり、樹齢およそ800年といわれています。その大きさもそうですが時代を生き続けてきた生命のエネルギーが感じられます。

錬行堂

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慈覚大師円仁が求聞持法(ぐもんじほう)を修し、後に日蓮聖人が修行された場所。傍らには練行の井戸もあり、この井戸の浄水を浴びて練行する僧が絶えなかったとのこと。

旭が森~日蓮聖人像

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建長5年(1253)4月28日、日蓮聖人はこの場所で初めてお題目を唱え、法華経の布教を決意しました。

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ちなみに、この日蓮聖人像が建立されている旭が森は富士山を除いて本土で一番早く初日の出が拝める場所になります。

厄割玉と厄割石

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日常の不安や悩み事の念を玉に吹き込み、前方の石に投げつけることでそれらの厄を払う玉です。

特に高齢の父母、義父母の健康が目下最大の不安事。

腹の底から念を吹き込み、全力で叩きつけてやりました。

信育道場でのお写経

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この日の宿泊は僕一人というなんとも贅沢な時間。

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今回お写経させていただいたのは「寶塔偈(ほうとうげ)」。

寶塔偈は、法華経の「見宝塔品第十一」の偈文。お写経は一文字一仏と言われ、一文字書くことは一体の仏様を彫るのと同じとされます。一文字一文字にありがたみを感じながら、約100文字のお写経に1時間ほどかけて取り組ませていただきました。

宿坊での半生振り返り

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写経が終わり宿坊での夜。外は山の上の暗闇(満天の星空でした)で何もすることがありませんのでじっくりと半生を振り返る時間にしました。

また、今回は「自分視点」ではなく、そのときそのときの関係者(親、兄弟、先生、友人などなど)である「他者視点」にたって過去の出来事を丁寧に振り返ってみたのですが・・・、これがとてもとても新鮮で自分のなかに大きな変化がありましたので少し詳しく記しておきたいと思います。

この変化を一言でいうと

「自分の過去が愛らしく感じられるようになったこと」

です。これはとても大きな変化でした。

たとえば自分にとって辛い思い出、苦い思い出、恥ずかしい思い出といったネガティブな記憶(出来事)があります。こういった記憶について振り返る際には、あのときはこうだったな、と自分の視点で当時に思いを馳せるのが通常かと思います。そして、そこに起きるのは大抵が反省や後悔といった感情でした。

しかしそのときの出来事を、たとえばそのとき近くにいた友人の視点にスイッチして(友人に成りきって)みてみると・・・、実はそんなにたいしたことでもなかったりするなということが全身で体感できたのです。自分とは異なる価値観をもった他者の視点にたってみると、僕の苦い出来事もなんのことはない日常の一コマだったりする。

つまり「辛い」とか「恥ずかしい」というのは自分がただ勝手にそう感じていただけなのであって、その出来事そのものが辛いということではないんだということです。

このように自分ではない他者の視点にたち、記憶を再再生していく過程のなかで、「出来事そのものには良いも悪いもなく、自分だけがそう感じていたんだな」と気付いた瞬間、自分の過去(特にネガティブな記憶)が途端に愛らしく感じてくると共に、本当に色々な人に支えてもらいながら自分の人生はここまで来たんだなという感謝の念が心の底から溢れるように湧き出てきました。

この他者視点での振り返りを凡そ5~6時間ほど行い、この夜は眠りにつきました。

旭が森からいただくご来光

夜が明ける前(5時半頃)に起床し旭が森へ。千葉県で三番目の標高だけあってとにかく寒い。肌が切れそうなほどに空気が張り詰めていました。

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凜とした空気の夜明け前

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雲のすきまから

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温かく照り輝きそして力強くのぼるご来光。

涙が出るくらいの美しさとエネルギーをいただきました。

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朝日に輝く日蓮聖人像。ここで立教開宗の第一声をあげたときが32歳という年齢だったことにも驚きです。

薄氷りの手水舎

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早朝は手水舎にも薄氷が張っていて、当たり前ですがめちゃくちゃ冷たい。身も心も一層清められました。

朝のお勤め

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そして本堂での朝のお勤め。凛とした空気のなかで聴くお経、お焼香の香りには心の澱が溶けさっていくかのようでした。


「心を整える」という行為は、日々慌ただしい毎日を過ごしていると後回しにしてしまいがちなものですが、お寺という場には慌ただしさは一切ありません。こうした場で静かにただ自分と向き合うこと。

今回は、他者視点に立ってゆっくりじっくりと半生を振り返ってみましたが、その結果自分の過去への捉え方に前向きな変化が起き、そしていつにも増して感謝の心が醸成されるというとても尊い時間を得ることができました。

普段忙しくされている方、ぜひお寺に一泊いかがでしょう?

他者の視点での半生振り返りもとてもおススメです。




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