モノは生きている|わたしの豊かさ#16
ちょっと変なはなしをしたいのですが、子供のころ、すべてのモノに命があると信じていました。
誰かにそう言われたわけでもなく、はっきりそう感じていました。壁にぶつかるとごめんねと撫でて壁に謝ったり、タオルに水をつけるときは一緒に息を止めたりしていました。モノをうっかり乱暴に扱ったとしたら、そのモノがどんな気持ちか無視することができませんでした。
その話を家族にしたときに「そんなことはない」と少し笑って否定された日がありました。悪気は全くないと思いますが、幼心に気持ちを共有したかったのだと思うので、結構ショックでした。その日から、徐々にそんなことを考えることはなくなっていき、なにも感じなくなっていきました。
思い出したのは、こんまりさんブームで、こんまりさんが『ときめくモノに囲まれた生活を送るとしあわせになれる』という概念を基に書かれた片付け本を読んだとき。
著書のなかで、モノを擬人化した表現が頻出します。
引用に(中略)が多いですが、表現がとても面白いです。本書のなかではこうした表現が多用されています。ここまで振り切った擬人化をされると、モノが生きているということがかなり肯定されていきます。わたしの中で、子供のころに感じていた心が再び呼び起こされたのがこの時でした。
今は昔ほど感性が柔軟ではないですが、子供のころに感じていた感覚は本物だったんだ、と嬉しくなりました。
わたしにとっての豊かさを考えるうえで「好きなものに囲まれる」ということは重要な要素で、それを柱に直近7つの記事を書いてきたのですが、ここまで書いてきたその好きを辿っていって出逢ったモノとのご縁は、単なる無機質な出逢いではなく、お互いに意識を持つ存在同士、お互いに作用し合う関係があったものだと思っています。
すべてのモノに意識があって、空間にも記憶があって、全部生きているのだとして、自分の側にいるモノたちはみんな自分の役に立ちたいと思っているのだとしたら、家の中にあるモノたちに対する気持ちが変わってきませんか^^
世界中で多くの支持を得たこんまりさんも2冊目の著書のなかでこんな風に綴っています。
この記事は2023年の「豊かさ」に必要な8つのことの中の
2.好きなものに囲まれるを補完する最終話:モノは生きているを説明する内容でした。元になる記事はコチラ▼
次回からは新章【美味しいもの】に入ります。日々の食べもの飲みもの、美味しいほうが良いに決まってますが、”美味しい”の概念が味覚だけでなく五感で感じるものになっていったことに基づいて書いていきたいと思います。
まずは #17【丁寧な珈琲、お茶】について書きます。
今週は息子の保育園がコロナ休園の日があり更新がまちまちになりそうです。明日は更新をおやすみして、無理なく楽しく書けるときに更新していきます!
読んでいただき、ありがとうございました!
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