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『リベラル」の危機:『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムのことは嫌いにならないでください』

1:本書について

先に『新しい階級闘争』について書いたが、今回は、併せて読んだ『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムのことは嫌いにならないでください』について書く。
AKB48の2011年の『総選挙』の時の前田敦子さんのスピーチ「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」に感化されたタイトルだがよくできたタイトルである。
というより、あのスピーチがあちこちで使い回しできるほど秀逸だったいうことだろう。

著者:井上達夫氏(東京大大学院・法学政治学研究科教授:法哲学専攻)

本書は、
第一部『リベラルの危機』
第二部『正義の行方』
で構成されており、志摩和生さん(毎日新聞出版書籍本部)のインタビューに答える形式である。

井上氏の見解をおおざっぱにまとめると。
・ダブルスタンダード
・エリート意識からくる愚民観
・様々な問題の政治闘争への利用
という問題がリベラル批判の根本にある。

個人的に重要だと思った点は第一部『リベラルの危機』に多く出てくるので、第一部を中心に再構成して紹介したい。
本書は内容がかなり濃密であり、1990年代以降の日本の政治史(小泉構造改革や2009〜12年の民主党政権の顛末)についても興味深く拝読したが、ここでは相当カットせざるを得なかったのが残念である。

2:ダブルスタンダード


2014年夏に、第二次世界大戦時の日本軍『従軍慰安婦』の人たちの動員に関する証言に創作が含まれていたとして問題になった『吉田証言』を基とした過去の記事を朝日新聞が取り消したことに関する池上彰氏の自社の紙面批評を載せないようにし、批判された問題があった。

これは
・巨大権力化したメディアの問題
・大組織の「ことなかれ主義」の広がり
・『きれいごとを言っていた朝日新聞内部の腐敗』への世間の反発
についての『リベラルの問題』と井上氏はみている。

『言っていることとやっていることが違うダブルスタンダード(二重の基準)を見せたらリベラルの主張そのものが自壊してしまう』と、『吉田証言』問題であらわになった、このダブルスタンダードは、メディア界に限らず日本のあらゆる労働現場でみられる労働問題についてもいえることである。

日本の労働問題を考えるには、「会社」の二重構造や『会社主義』についても理解する必要がある。(第二部『正義の行方』より)
さらには、先に紹介した『新しい階級闘争』の中でも出てきた『エリートと労働者階級』のことも含めて解釈する必要がありそうだ。

『会社主義』の問題は、
・従業員共同体の問題
・個人を抑圧する日本的共同体の批判
に行きつく。

1990年代以前から続いている『会社主義』的な雇用保障は、
・正社員には長期雇用保障を与える
一方、
・パートタイム労働者や派遣労働者など非正社員や外国人労働者にその保障をおよぼさない
という『二重構造』になっており、日本の会社システムそのもののなかに組み込まれている。
それは、リベラル派のくくりに入る大手メディアも例外ではない。
そして、『正社員』(特にメディア界)のエリート階級化と『非正規労働者』の分裂が明らかになってきた。

日本の基幹労働力の雇用を守るためのバッファ-(余裕)は
1:日本では正社員は景気が悪くなっても簡単に解雇できない(注:大手企業の場合。中小・零細企業はそうだとは限らない)から、景気がいいときでも(正社員を)あまりふやさず、正社員の残業時間をサービス残業(残業代の不払い)をも含めて増やして調整する。
2:景気が悪くなると、日本では正社員を切らないかわり非正規社員を切る。
の二つであると述べている。

不況が続くなかで非正規社員(労働者階級)が分厚くなり、企業が労働者階級の流動性に頼っているのが現状である。

日本的会社主義の雇用安定が美点に見えたのは
・好況期にこの二重構造がよく見えなかったからであり、
・(主に正社員の)過労死や過労自殺
・使い捨て要員としての非正規社員の搾取
といった構造的な病理が明らかになっている今、『日本的会社主義は相変わらず克服すべき問題である』と述べている。
メディア界の『二重構造』については、以前東海テレビが制作した『さよならテレビ』でも触れられているので、興味がある方は合わせてご覧いただきたい。


以下はあくまでも個人の感想だが、メディア界の『二重構造』の問題はSNSの黎明期よりも前のインターネット掲示板(当時の2ちゃんねる)でも触れられていた。
・『さよならテレビ』でも触れられている『二重構造』の上に乗っかりながら『きれいごと』『毒に薬にもならないネタ』を流してきたこと
・特に労働者の賃金が安く産業も相対的に少ない地方で『エリート』と化してきたこと
・各社の資本関係や広告収入などの関係で地方の支配層やボスの顔色を伺っているという疑問
・仲間内しか見ていない、内輪ノリが過ぎる、『外野』に冷たい
・メディア界のみならず大手企業・官公庁が地方でもはや『エリート階級』化していることへの自覚の薄さ
に対する不信感が増幅され、それが2ちゃんねるの普及を機に特に地方紙・地方局のリベラル路線批判を中心としたマスメディア批判、そしてリベラル批判へとつながっているのではないか。

そして、さらにタチが悪いのは、
・縁辺の人たちが実質的に『二級市民』として扱われていること
・下手すれば『リベラル』『左派』の人たちも縁辺の人たちを蔑視すること
・『リベラル』『左派』の人たちが縁辺の人たちを蔑視しつつ表向きでは『きれいごと』を言っていること
ではなかろうか。

3:『庶民はバカ』という見方(愚民観)

 本書では、リベラル派に強い考え方として
・民主政は完全には信用できない
・多数派の暴走『多数の専制』は司法等々を通じてチェックしなければいけない
という考え方がある。
この考え方のもとには、
『民主主義を放っておくと愚民化する・愚民政治になる』
『おまえらに決めさせるとバカをやるから、われわれに任せろ』
という、古代ギリシアのソクラテスの影響も受けた『愚民』のイメージ(『愚民観』)があると、安全保障(外交・軍事)などを例に井上氏は述べている。
しかし、例えば福島第一原発事故や新型コロナウイルスのパンデミック対策、遡れば水俣病などの公害病、薬害、ハンセン病患者の差別・絶滅政策、そして、植民地政策、日中戦争、太平洋戦争など、民衆を愚民視しているエリートたち自身が実に愚かな失敗をすることもありがちなことではないか。

エリートも含めて私たちはみんな愚かさから免れないから、私たち自身の愚行や失敗を教訓として学んで成長するための政治プロセスを提供する民主主義が大切である。
しかしながら、私たちの住まう日本社会では、エリート階級と労働者階級が分裂し双方の間では対話どころか闘争が始まっているといっても過言ではない。
例えば『NHKから国民を守る党』と立花孝志の躍進、パンデミックにおける『国民主権党』『神真都Q』などの反社会集団の出現、ツイッターの『クラスタ』のムラ社会化は、分裂の一例ともいえなくはなかろうか。

4:重要論点の『政争の具』化

2020年代の日本は、
・第二次世界大戦後から続く戦後補償問題
・日本国憲法そのものの問題(特に第9条)
・『第9条』に関連する、安全保障政策の問題
・皇室制度の問題
が民主制のなかで大きな問題とされてきた。
時には政治日程の中で、特に安全保障問題や戦後補償問題が政争の具とされてしまった歴史がある。
『リベラル派が己の利益のために他人を利用している』と人々から冷めた目でみられ、非難されている現実からスタートしなければならないようである。

たとえば戦後補償については、『従軍慰安婦』(実質的には戦時性犯罪というべきだが)の方々への戦争犯罪の謝罪のためにつくられた『アジア女性基金』や、近年だと『労働者の徴用問題』が重要問題となってきたが、当事者(主にコリアンなど旧植民地の人々)の利益の問題よりも日本政府の姿勢の批判が目立ってしまいがちである。
『アジア女性基金』については、韓国や日本の支援団体や人権団体の一部から「政府の法的責任を隠蔽するための欺罔的手段だ」という批判が起きた。
戦後補償の問題に取り組む過程で、『リベラルといえば「何が何でも自己否定の土下座外交」』という悪しきイメージが出来上がってしまったが、リベラル派のなかで戦後補償について政府を質し、より良い制度をつくりあげるための大義名分ができていたのだろうか。
リベラル派のなかでも植民地主義的な思想が抜けていないことがあるという批判も時々みられ、この辺りもはっきり反省しておく必要があるだろう。

安全保障政策・自衛隊の問題については、
・自衛隊と日米安全保障条約の利益を認知せずその正当性を認めない
・原理主義的に護憲を世間に主張しながら、実際には自衛隊と安保を認めていること
・政治的主張のための戦略カードとして使っている
・自分たちが維持したいと考える安全保障体制を反対派に押しつけるために、憲法を使っているのではないか
と井上氏は批判している。

皇室制度については、井上氏は
・職業選択の自由がなく政治的言動も禁じられ、表現の自由もなく主権者国民が皇族を奴隷化している
・天皇制(皇室制度)を国民が自己のアイデンティティのために「使っている」
と述べている。
・老齢の夫婦(刊行時の天皇・皇后夫妻=現在の上皇夫妻)が、体にむち打って不幸な少数者のもと(例:ハンセン病患者療養施設や水俣病の患者さんたちのところ)に行かなければ日本国民の関心がそこにいかない
・日本のメディアと一般国民が、天皇夫婦の献身的な姿に感動する一方で彼らを『記号』として奴隷化しているうすら寒く痛々しい現実があるとことを思い起こす必要があるだろう。

だが、『人権尊重』を掲げるリベラル派が、この『最後の奴隷制』である皇室制度を自分たちの政治目的を実現する(平たくいえば、リベラル派の政敵である自民・公明などへの攻撃)手段として利用するというのは、『思想的な自殺』というほど危ういことなのではなかろうか。
今の日本のリベラルが、そのこともわからなくなっているとしたら『末期症状』ではなかろうか。

リベラル派が、よりよい世の中にするためでなく、政敵を追い落とすため『だけ』の目的でたとえば日本国憲法や皇室を利用しているのだとすれば、遅かれ早かれ一般の人々からそのような卑しい意図を見透かされ、『私達はてめぇのイデオロギーの道具じゃねぇ』と反発され、見放され、滅亡することになるのではなかろうか。
ひとりでもそのことに気づいてもらえると幸いである。

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