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婚活、やめました。【その2】

【その1:
https://note.com/matsuda_take/n/n4eaa805b33ef
の続きです】

(参考記事)
https://note.com/beatangel/n/n15213e72cadb

https://note.com/chiyosaki_npu/n/ne487ad2b5ef3

4:『婚活』そのものへの違和感

俺が以前からぼんやりと考えていることがあります。それは、
・人間の恋愛や結婚などのライフイベントがホッブスのいう『万人の万人に対する闘争』状態になっていること
・『恋愛/婚活市場』という言い回しの非人間性に誰も違和感を持っていないことについての疑問
・恋愛や結婚というライフイベントをゲーム感覚で消費して、相手を人間でなくゲームのコマとか的のように手軽に消費しているんじゃないのかという違和感

です。
そこで、個人的に考えを巡らせてみました。
『小人の考え休むに似たり』とはいいますが。

『恋愛/婚活市場』では個々人の人格だけでなく肩書や職業や経済状況などの『スペック』をもとに当事者が評価されます。
ただ、その評価の基準というが個々人の状況で変わってくることもあるため、労働市場のように数値化しにくい状況にあります。
『市場』の仲介者として結婚相談所が存在します。
労働市場における人材紹介会社と異なり、こちらは当事者が費用負担します。
そして、『相場』は業者が決めます。
当事者同士のマッチングは相談所などで行われますが、ブラックボックス状態であり、また、『成約率』が低いという話もあり、見ようによっては『やらずぼったくり』じゃないか、と思わずにはいられません。

5:男の視点で考えてみる

ツイッター界隈で時々盛り上がる(特定のユーザーは継続的に扱っている)『非モテ』『弱者男性』の問題。
これはジェンダー問題の括りで捉えると話が進みやすいはずです。
武士の時代の影響もあり長年本邦に根付いてきた家族観に、2020年代に至ってなお男性・女性共に縛られているんじゃないのかな、と思います。

男は家族を養える稼ぎを得て/家族を得て一人前、女は結婚・出産して一人前…
男は女をリードできる、女は男に依存する…
誰もが若い頃からそのための訓練を積み重ね、成功を収めたものはますます成功し、そうでなければますます成功から遠ざかり、労働者となって社会に出ても成功できない…

労働市場が労働者に不利となる改革が行われ、そして、多くの人々もそれを支持してきた結果、家族の生活を支え、子供に満足な教育をさせられるだけの収入を得られない、それに加え、『恋愛/婚活市場』でも容赦なく切り捨てられた人々が社会から仲間外れにされたと感じ、社会に失望することがどれだけ社会にマイナスになるのか。
そういうことについての想像力が乏しいのが、日本の社会なんじゃないかなと思うのです。

特に思春期にありがちな、失恋を往々にしてお笑いネタとして消費し、失敗者を笑い者にする悪癖、そしてそれを諫めることをしなかった傍観者の姿が、恋愛や結婚そして家族形成の問題、ひいてはジェンダー問題の足枷になっているような気がしてなりません。

余談ですが、俺は少なくとも『恋愛工学』ように、恋愛対象(例えば女性)を『人格のあるひとりの人間』でなく『ゲームの標的』『性欲の解消手段』として『モノ』扱いしている言説は非人間性の極みの如何わしいペテンだと思っています。
そういうペテンに引っかかる人を一人でも減らしたい、そう思ってこのnoteを書いています。

6:オピニオンリーダー/インフルエンサー諸氏へ言いたいこと

いわゆる『オピニオンリーダー(世俗的な意味の)』や『インフルエンサー』的括りで見られている人があちこちにいます。
特に、俺が一度離脱した日本語圏のツイッターユーザーの中には、経済面・社会面の『市場原理主義』や『ネオリベラリズム』を批判する人気ユーザーもいます。
俺が思ったのは、それらのイデオロギーやそれがもたらす弊害を批判するのは大いに結構なことですが、その延長上あるいは一例として、『恋愛市場/婚活市場』の非人間的側面をもっと批判してもいいんじゃないのか、ということです。

恋愛/結婚の主役は、あくまでも当事者であり、恋愛関係の成立も失恋も結婚も離婚も基本的には当事者間のマッチングの問題から考え直すべきなんじゃないか、と思います。
運動家は運動家の役割を、当事者は当事者の役割を、政治の問題や社会の諸制度の問題であれば、政治家や専門家の役割を果たすこと、そしてそれぞれの立場を尊重することからやり直すべきなんじゃないかとも思います。

そして、恋愛や『婚活』や結婚の問題は、家族法制度や社会保障制度にもつながっている、地続きの問題でもあるという視点を忘れないでいただきたい、と強く思います。

7:『N放世代』として、生涯独身を見据える

先般大ヒットした『パラサイト』などの近年の韓国の硬派映画の根底にある世界観を知る一つのキーワードを紹介しておきます。

『N放世代』。

これは、日本だと『就職氷河期(特に平成バブル後)』や『失われた世代』に近い意味合いがある言葉として理解するとよいでしょう。

参考:https://www.buzzfeed.com/jp/yutochiba/parasite

『N放』が意味するもの。

(放=諦めることを指す)
・三放世代:恋愛、結婚、出産を諦める
・五放世代:『三放』+就職、マイホームも諦める
・七放世代:人間関係や夢までも諦める
・N放世代:人生のすべてをあきらめたまま生きる

参考:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68295?media=gs

10代から(積極的ではなかったとはいえ)曲がりなりにも恋愛をしてきた結果、恋愛の場面で承認欲求を満たせず、燃え尽きた(今後どうするかは不明ですが)俺の現状は、
・恋愛
・結婚
・子供
・マイホーム
・夢(仕事での成功や安定した生活)
を諦めて晩年に周囲をなるべく煩わせずに死ぬ準備を始めようとしているところです。

俺の中でぼんやり思い浮かぶこと、それは
『俺がジジイになるころ、俺の居場所はこの日本にあるのか?』
『俺だけでなく『失われた世代』(特に生涯独身などで独り身になる人々)が『社会のお荷物』としてじわじわ殺されるんじゃないか?』
ということです。

『パラサイト』が映し出した絶望的ともいえる格差・階級社会の現実、そしてパンデミックがもたらしている世界恐慌を目の当たりにして、『置かれた場所で咲きなさい』とかの耳障りのいい慰めの言葉は、所詮それ以上のものでもそれ以下のものでもないと言い聞かせ現実を見て、アンテナを張り巡らさないと、多分多くの人々はこのパンデミックと恐慌で死ぬんじゃないか、そう思っています。
(俺に励ましの言葉を送ってくれた人には申し訳ないんですが)

生きる為のカネがなければ、社会からの孤立をどうにかしなければ、死ななくていい人がどんどん死ぬ。

そして、誰かひとりでもいい、見捨てられている人々に『あなたは悪くないんだ、生きてていいんだ、なんとしても守る』とまるでイエス・キリストやローマ教皇のようなことを言える人がいない、そんな世界に救いはあるんでしょうか?
そんな世界が人類の文明だったら、早晩滅亡するんじゃないですか?

俺自身の恋愛の終了(バーンアウト)からいろいろ考えて見たんですが、今回のCOVID19のパンデミックが、人類文明の危機だと思わずにはいられません。
パンデミックのみならず、社会の危機や諸問題に立ち向かうためには、人々が互いを尊重し合うことから始めるべきだと俺は言いたいです。
恋愛や結婚の問題から見えてくることはどんどん出てくると思いますので、改めて書きたいと思います。


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