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僕は他人を理解できない

人が他人を理解することは本当にできるのでしょうか?

僕にとってこの問題は幾度なく付きまとってきました。

それぞれの人が誰かを理解するために行動をとりその人が望むものを生産し、需要に合わせた供給を行うシステムが構築していきます。そこには、様々な人が関わることで成り立っていくものだと感じます。

あなたは他人を理解するために何を考えていますか?

「社会には今後何が必要とされていくだろうか?」「客観的に物事を理解するためには?」「どうやったらこの人を理解できるだろうか?」             

これらは全て、最終的には1個人のためのものへと結びつくのではないのでしょうか?


僕は、他人を理解することができないと考えています。

それは他人の立場を実際に体験しなければ、本当の意味で理解できないからです。

僕は、父親か母親、親しい友人を亡くしたことはありません。僕は、靭帯の断裂などの大怪我をしたことがありません。僕は、生まれながらに障害を持っているわけではありません。僕は、同性に恋愛感情を抱いたことはありません。僕は、交際相手に浮気をされたことがありません。

本当にその人の立場になって理解できる訳ないんだと思っています。 

この考えの背景には僕自身が吃音症を持っていることにあります。

誰かに相談したとしても、深呼吸することの大切さや、考え方を広く持てと言われるくらいでした。

それらは、一時的には良くなったとしても根本的な解決には一切至りませんでした。

自分が普通ではない状況に陥った時、普通であることがいかに素晴らしいかを改めて感じました。

自己紹介ができない。挨拶もできない。言葉で何かを伝えようとすると吃音が襲い掛かってきます。

日常生活においては、どうにかごまかしながらも生きていくことができる人がいます。僕もその1人です。言いづらい言葉や状況をなるべく避けたり、その場の雰囲気をごまかすことで潜り抜けてきました。

しかし、言葉を発することで重要な試練が訪れます。就職活動です。

初めて会う人からすれば、自己紹介をまともにできない人は門前払い。  今のご時世でそこまで大げさにはされませんが、明らかに対応が雑になっている様子が見られました。

話したくても話すことができなくなる。伝えたいのに伝えられない。

もし、話すことや伝えることがどんな形であれできて落選するのならば、   大したダメージにはならなかったと思います。しかし、何も話せない、伝えられない場合はもどかしさ以外は何も残りません。

帰りのコンビニでアメリカンドックが食べたいのに「アメリカンドック」が注文できず、水だけ購入して公園で気持ちが落ち着くまで座り込んでいました。

時には、面接の緊張感であっても流暢に話すことができたりもします。しかし、その流暢にもできるという事実が「どうして話せないこともあるだ!」と憤りを覚えることもありました。

こういったことを繰り返す内に、僕は50社ほどの会社に落選しました。

吃音症のことを告白したこともありました。

吃音症を隠しながら、「あがり症なんです(笑)」とニコニコしながら面接をしたこともありました。

しかし、僕が吃音症であることは他人には何も関係はないのです。たかが、何人も会社に受けてくる大学生の1人の人生に理解を持ってくれることなんてできないのです。それは、例え長年付き添った友人であっても、家族であっても恋人で会っても同然です。

なぜなら、彼らは「吃音症ではない」からです。

難発の時の、首を絞められるような筋肉の硬直。その中に流れ込む沈黙の時間。「どうして話せないの?」と覗き込むように自分を見てくる人たち。

僕だって、舌の近くまで話そうとしている言葉はあるのにあと一歩が出ないのです。何度も何度も出そうとしているのに出せないんです。

話を考えているわけではありません。話がまとまっていないわけではありません。緊張しているわけではありません。何も分かっていないわけではありません。 助けを求めているわけではありません。

ただ、話そうとした言葉を口から発することができないのです。

この状況を理解できるのは、同じ吃音症である人でしか理解できないと思いました。

そう思ったと同時に、他人を理解するためには、他人と同じ立場に実際に立たなければ理解できないことも悟りました。

「当たり前じゃないか?」

そう思う人が多いと思います。しかし、それは思うだけであって      意識して取り組めているのでしょうか?本当にその人を理解しようと行動しているのでしょうか?本当に他人を理解することはできますか?

どのようにしたら他人を理解することができるのでしょうか

僕は、「知る」「聞く」「寄り添う」ことだと考えています。

「知る」こと。単純ですよね。でも、何を知る必要があると考えますか?

僕の場合であれば、「吃音症のことを知る」ことになります。この知ることは十人十色です。

事実を知ることによって、他人を理解することの第一歩としてその人の状況を知ることに繋がります。知っていないと知っているでは大きな差がそこにはあると思います。

「聞く」こと。これも単純ですね。それなら、何を聞くのでしょうか?

病気のことを直接聞くのは、聞く側にも重たいモノがのしかかってきます。

それでも、いつかはその人が自分の何かを背負うのが嫌になることが来たりもします。その時に、「どうしたの?」と聞くことが大切だと思います。

最後に「寄り添う」ことです。この中では、1番難しいものだと感じています。

僕もそうですが、昨日の考えが今日も同じ考えであるとは限りません。それは誰にでも当てはまることができると考えます。体型が変化する人もいれば、思想が変化する人もいます。つまり、人は微弱ながらも変化し続けていくのです。

だからこそ「寄り添う」ことが必要なのです。

自分が変わり続ける中においては、人間関係も変化していくものです。そういう状況の中においても誰かが居てくれるというのは支えになると思います。その人に寄り添っていく中で、本当の意味で他人理解することができるのではないかと考えます。


ここまで、他人を「知る」「聞く」「寄り添う」ことで本当の意味で理解できるのではないかと述べてきました。

僕自身においても、「ここまでできたことはあるのか?」と自問自答しても「出来でいない」と答えてしまいます。

友人関係において、「私のことなんて誰も理解できない!」と言う人にはドラマの中の人や、現実で出会ったことがある人が多いと思います。しかし、実際に自分のことを理解している人など存在するのでしょうか?

僕は、他人を理解するための行動をしたとしても、理解できないのだと考えています。

だからこと、他人を「知り続ける」「聞き続ける」「寄り添い続ける」必要があると思います。

継続することによって他人を理解するための糸口を見つけていきたいと考えています。

僕は、他人を理解することができない。だからこそ、他人を「知り続けたい」「聞き続けたい」「寄り添い続けたい」。本当の意味で他人を理解したい。

皆さんはどのようにして他人を理解しようとしていますか?


   



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