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合気道は考えるべきか感じるべきか?:言語と身体から考える合気道

人間の言語というのは身体を抜きには考えにくいし、言語があるから人は身体をより効率的に使えるのだと思う。
例えば多くの生物は直感的には4くらいまでの数しか認知できないと言われている。

人間は「指」を認知したことで、自分の指を活用することで5とか10といった数を理解したという説もある。反対に言語を持たない民族は4までしか数字を理解しないという。

今回は合気道をやってきて、言語と身体について考えた妄想みたいなものを書いてみる。

言語的でない反応

言語というのは後付けというか、人の行動を後から記述するものでしかない、みたいな感じの研究は色々あるけれど、考えてみればそんなに変なことではない。

例えば一瞬だけ見せられた写真に鳥が何羽くらい写っているか聞かれた場合、正確に数えられるのは4羽くらいまでが限界だろう。
10羽も20羽も写っていたら一瞬で正確な数をはじき出すことはできない。

これはたぶんだけど、言語を持たない民族が数えられる限界値とおそらくそんなに変わらないだろう。
瞬発力が必要な場面というのは、いちいち数えたりする暇もないので「たくさん」くらいの方が早い。

言語は後付け

反対に時間をかければかけるほど、言語を使う人間はより論理的な思考ができるようになる。
言語的な発想があれば一瞬みせられた写真を思い出しながら、ある程度の数を推測することができるというわけだ。

こういう話は行動経済学のシステム1システム2の話や、心理学での象(感情)と象使い(理性)の話に近いかも知れない。

実際に脳科学でわかっているように人間の意思は身体が動きはじめた後に発生しているということが、こうした考えのひとつの根拠でもある。
考えるよりも早く反応した方がいい物事に対しては、身体の方が先に動くようになっているのだ。

理性で上書きする

合気道の技を考えると、それはあまり言語的ではない。
ただし、速度的に速いかというとそういうわけでもない。むしろ速すぎたり遅すぎたりすれば失敗する。人の反射や反発みたいなものを利用する。

稽古していないと人は反射的に引っ張ろうとしたり、余計なことをしてしまう。
それを理解してやめることで相手の反応を邪魔することなく利用できるようになる。

つまり合気道の技というのは、「理屈」でもって本能的な反応を上書きするのだと思う。
それをやるためには稽古をして、余計な反応をなくしていかなければいけない。

まとめ

ブルース・リーは「考えるな、感じろ」という名言を残しているけれど、稽古もしないまま本能的に感じたら、そのまま人間本来の反射が出てしまう。

そういう反応をなくして必要なことだけするように変えていく。

それが言語と本能の合気道的な使い方、なんじゃないだろうか?

参考文献

ノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンによる著書、早い思考と遅い思考という二つの人の思考によって行われる意思決定に対してどのようなバイアスがかかるか?みたいなことが書いてある。

象(感情や本能)と象使い(理性や言語)というメタファーで人の行動をどう変えていけばいいかが解説されてたりする。
象使いの長期的なトレーニングによって、象の動きを変えて行こう的な発想。

結局のところ早い思考と遅い思考、システム1とシステム2、象と象使い、本能と理性、情動と言語みたいなものはアプローチや説明方法は違えどだいたい同じ人間の習性の話だと思う。

脳梁を切断した人の視界を片方だけ隠して物を見せると、見てる目の側によって発言が変わってしまったり、人間の右脳と左脳が人格にどんな作用をもたらすかの研究などが紹介されてる。

有名な人の意思は遅れてやってくるという実験は、動こうと思ってから身体を動かすまでにタイムラグがあるという話ではなくて、動いた後で人は動こうと考えている、という話。

年代が高めの人が大好きなブルース・リー。
32歳で死んでるので、映像を見てると若くてイケイケだなぁと思う。
筋肉の発達具合も異常。キモい。
だいたいのブルース・リーのファンはブルース・リーより歳上という現象を頻繁に目にする。

本文と直接は関係ないけど、合気道開祖の口述集である武産合気を英語版と比較すると、やっぱり日本語の特異性みたいなのが目立つ。

漢字が勝手に裏の意味を持ったりするので、日本語というのはそもそも武道的な思想を受け取りやすい形態なのかも。
知らんけど。


以上







マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?