合気道化師マツリくん
合気道開祖である植芝盛平の思想『武産合気』を解説したり参考にした記事をまとめてるヨ。 合気道修行者にはおススメ。
上遠野浩平作品と合気道の共通点などを語る記事のまとめ
合気道マニアック本解説記事のまとめです。
目についた物事の合気道的なところを解説する記事
エミール・デュルケーム著『宗教生活の基本形態』から宗教と合気道の関係性を紐解いてみるよ。
今月の稽古を振り返ると3月末にめちゃくちゃいい稽古ができて、それがキッカケになって色々と考えが整理された。 自分ではかなり力が抜けてきたつもりだったけれど、さらに弱い力でやっていけるようになったと思う。 この調子でどんどん弱くなっていきたい。 という話だけだとあまりにも抽象的なので具体的なことはだいたいここら辺の記事に書いた。 4月は戦前と戦後の合気道について考えることも多かったけれど、何より開祖の教え方にすごく共感できた。 戦前と戦後の開祖に通底する教えは「技なん
よく合気道とかの動画で技をかけるときに「気でやっている」みたいな表現がされることがある。 これがつまりはどういうことなのか?一つの説を思い付いたので解説してみよう。 まぁ、誰もが同じ意味で使っているとは限らないので、あくまで一説として読んでもらいたい。 もしかしたら何かのヒントになるかも知れないし、逆に混乱させちゃうかも。 どっちでもいいぜ! 前提条件個人的には合気道の稽古をする上での絶対的な前提条件として正面から当たり合うというのがある。 人と人が接触している状
あれはちょうど中学1年生の頃だ。 スラムダンクにハマっていたおれは地元の中学校にバスケ部を設立せんと活動していたが、親が突然タンザニアへと転勤になった。 妹は泣き崩れ、おれはそこならバスケ部があるだろうと喜んで飛び跳ね、家は悲しみと喜びが入り混じるカオスな空間へと変貌した。 かくして日本にはおれがバスケ部をつくるために集めた数人のメンバーだけが取り残されることとなり、おれはタンザニアへと飛び立った。 インターナショナルスクール幼少期から英語にも慣れ親しんでいたので、英語
合気道の思想を理解するにあたって上遠野作品を読んでいたことはかなりプラスになっていたと思う。 本当に大事なものというのは、実は泡のように他愛のないものだったりするからだ。 そんなわけで、合気道的な観点から上遠野浩平のデビュー作である『ブギーポップは笑わない』について解説してみよう。 合気道とブギーポップの共通点まず合気道とは中心を探す武道だと思う。 表と裏、呼吸、天地、勝負、そうしたもののどちらでもない『はざま』を探す。 ブギーポップも同じく『はざま』にいる存在だ。
戦後とか戦前とか言うけど何が違うんだ!?というのを弟子達の証言から調べてみた。 基本的に公開情報のみでやってくよ。 前編はコチラ↓戦前バージョン 補足はコチラ↓ 前提1946年、戦争末期から岩間で療養しつつ指導、出兵していた弟子達も戻ってくる 1948年、吉祥丸が主導して財団法人合気会が設立、合気道を正式に名乗る 1949年、合気座談会をはじめ、各地で講演や実演を行う 1952年、合気道に段位制が導入され、弟子の海外派遣もはじまる 1955年、日本橋高島屋で吉祥丸が盛
合気道の古い本というのは内容がわからないものが多い。 『武道』なんかもその類で、そのせいかコピー本が2万円で売られてたり、某フリマアプリではさらにそれをコピーしたやつが2000円くらいで売られていたりする。 本物であればコレクター的な価値は確かにあるけだろうけれど、内容そのものについては出して1000円くらいかなと思う。 というわけで、どういう本なのか解説してみる。 武道の概要と入手方法『武道』は1938年、陸軍戸山学校に通っていた時に皇族の賀陽宮殿下の要請によって作
インターネットの世界では古くから人を触れずに崩したりする動画が話題になり、だいたいバカにされる傾向がある。 たしかに触れずに人を崩すというのは胡散臭いことこの上ないので、笑いものになるのも仕方ないとは思う。 特にコンタクトの激しい格闘技やスポーツをやっている人ほど懐疑的になるようで、それもよくわかる。 触れずに崩すにはそういった世界にはないルールや前提があるからだ。 というワケで、そこらへんを理解しやすいように解説してみよう。 「触れずに崩す」はよくある現象まず格闘技や
合気道とは「自己に打ち克ち、敵をして戦う心なからしむ。否、敵そのものをなくする絶対的自己完成の道」だと言われている。 この道を行くためにはまずは自己に打ち克たなければならない。自分に勝てない限り、他人や敵をなくすることなんてできやしない。 というワケで自己に打ち克つ方法について考えてみた。 自分は敵なのか?けっこう人は思いこみで病んでしまったりする。 元ヤクザや犯罪者が、そういうレッテル貼りをされることを嫌がるように、肌の色とか、見た目とか、色んな要素で人は他人の目を
ダンスで余裕を考えた 月初めに海外の人がやってる歌とダンスのショーみたいなのを見ていたら、ひとりの女性ダンサーが妙に目を引いた。 結局その女性はメインのダンサーだということが後でわかった。男女ペアでアクロバットなダンスを披露するパートがあったからだ。 ただ、明らかな実力者だとわかったのはその前で、他のダンサーと一緒になって踊っている時、ひとりだけ妙に力が抜けてるバケモノみたいなやつがいると気がついたから。 本人にとってはメインのパートのために単に手を抜いていただけかも知
そもそものキッカケはこの記事。 戦前の稽古の実態を探ってると、『武道練習(合気柔術伝書)』(1933)と『武道』(1938)からも色んなことが見えてくる。 そんなわけで、先の記事では割愛した部分を解説していく。 メインとなるのは植芝盛平はなぜ技の説明をしないのか?という点だ。ほとんどの弟子が盛平はぜんぜん説明してくれない!技は忘れろとしか言わない。みたいな事を言っている。 その答えらしきものを少し考察してみた。 武道練習とは?『武道練習』は戦前の弟子だった国越孝子が
合気道はよく戦前・戦後でわけられたりするんだけれど、実際のところ戦前の合気道ってどんななの?というのを調べてみた。 ちなみにあくまで証言ベースであり、実は言えない裏話みたいなのは一切考慮してない。 あと、伝書から読み解ける要素もあるけど、長くなるので今回は割愛する。 興味ある人はコチラからどうぞ⇒戦前の武道書『武道練習』『武道』から合気道を読み解く|合気道化師マツリくん (note.com) 前提植芝盛平は1916年頃から大東流を習いはじめ、1920年頃に大本教に入って
じじいの世代交代 世代交代の波みたいなのを感じてる。 年齢が上の先生達が引退したり、出てこなくなったりして、もうひとつ下の年代の人たちが多くなってきた。 そうは言ってもみんな元気なじじい達で、そのせいもあってまだまだ力が強い。 これからどうなっていくのかは未知数だ。 おじさんを鍛えるおじさん おれはおっさんではあるけれど、道場の中では若い方になってしまう。 なので年上だけど道場では後輩にあたるおじさん達に色々と教えている。 地道にちょっとずつ色んな人の地力を底
合気道ではたまに自分の思う通りに受けを取れと指導する人がいる。 いわゆる効いてなくても倒れたりするような受けはこういう教え方から生まれるのかも知れない。 それはそれとして、効いてなきゃ絶対倒れませんというのも違うとは思う。 効いてないなら、どこで失敗しているかを確認して教えてやったり、どうやれば倒せるか導いてやった方がいい。 ちゃんとした技なら色々抵抗してみたりしながら、自分がどんな反応をしているのか確認しながら受けている。 受けは考え方ひとつで自分の成長に関する方
まず合気道と大東流の関係を知らない人に雑に説明すると、大東流というのは高級料理屋みたいなもので、武田惣角という人がごく限られた人にだけ高額で作り方を教えていた。 そこの稼ぎ頭で料理長的な立場だった植芝盛平が惣角の死後、戦後の混乱などの中で独立して看板を変えて出した大衆食堂が合気道という感じ。 合気道について調べているついでに、盛平の弟子達が語っている大東流との違いみたいなものが見えてきたので解説してみる。 歴史全体の分析盛平と惣角の関わりは、出会ってから惣角が死去するま
力を使わずに動かす方法を人に教えている時に衝撃の事実に気づいてしまった。 「おれ、これテキトーにやってるわ」 相手よりも下から入る、相手を支える、そういうことはほんの少しの準備で事足りる。 肚を使えばよかったはずなのに小手先になっていた。 そんなことに急に気がついた。 こういっては何だけど、特別何かしなくても勝手に動いてくれる人はわりと多い。 そういう人に対して舐めた態度をとってしまっていたのだろう。 開祖はすべての敵は神からの賜り物であるとさえ言っていたのに、
個人的にはこのくらいの本はマニアックでもなんでもないとは思うが、現実問題としてはそうでもなさそうなので解説する。 万生館合気道の砂泊諴秀の兄、砂泊兼基が開祖の話を聞き取ったものをまとめたのがこの本だ。 もともと砂泊家は大本教にいたらしく、盛平とは親しかったと思われる。そのためか植芝盛平本人による自分の生涯や思想をインタビューできたということらしい。 歴史パートだいたい2/3くらいは生い立ちから合気道を創設するまでのエピソードになっている。 兵隊の神様と呼ばれたとか、熊