セリーヌ神話とその起源 ~生田耕作と否(NON)の墓石を巡って~

※本稿は全文無料の投げ銭方式です。論文として投稿しようかとも考えましたが、最終的に最も幅広く読まれるであろう方法をとることにしました。

2022年2月22日訂正:
風野春樹氏より「セリーヌの友人Albert Paraz宛の手紙で、セリーヌ自身が希望の墓を述べている」との旨を教わりました。なので本文の内、「日本でのみ流通する「神話」」との記述は明確に誤りであるため、記して訂正いたします。事実を訂正する文章での不十分な記述、まことに申し訳ありません……。
 諸々を踏まえると、
墓碑銘は生前の希望としては存在していた
・生田耕作氏が出典なく記述し、確認困難となっていた。
 との推測がより正鵠でしょうか。

   序文

 まずは引用から入ろう。『夜の果てへの旅』等で知られる作家、ルイ=フェルディナン・セリーヌに関する、あまりにも有名なエピソードがある。

「その墓石には《否(ノン)》の一語だけが刻まれた」
  『夜の果てへの旅』(03年・中公文庫扉文)

 端的に言えば、これは「神話」である。小説家の墓には帆船と氏名・生没年が刻まれており、「NON」の文字はどこにもない

 この「神話」は、いつ、どこで生まれたのか?
 本稿は数々の資料を辿ることで、その経緯を解き明かしたものだ。
 セリーヌが日本で訳され、およそ半世紀が経つ。
 小説家の神話をめぐる『旅』に、しばしお付き合い頂ければ幸いだ。

   1・1964年

 まず結論を述べよう。発端は一冊である。
 中央公論社から出た、世界の文学シリーズ第42巻。
 生田耕作・大槻鉄男訳、『夜の果ての旅』。
 中でも、『セリーヌの生涯』と題された解説ページだ。

 ルイ=フェルディナン・セリーヌ Louis-Ferdinand Celine は、一九六一年七月一日、パリ郊外ムードンの隠栖所において、不遇の生涯をとじた。
 地区司祭から葬儀の執行を拒否され、《戦犯文学者》《国賊作家》セリーヌの遺体は、折からの小雨空の下を、なかば秘密裡に、少数の友人と家族の者だけに見送られ、ムードン墓地の鉄道線路脇の土地に、さびしく葬り去られた。故人の生前の意志に従って、墓石には、ただ一語、《否》(ノン)の文字だけが刻みつけられた。
    『夜の果ての旅』(1964年版)p484

 本編こそ共訳だが、解説は生田耕作氏の単独である。
 ここで、書き方に注目して頂きたい。解説に墓の写真はなく、何がしかの出典も提示されていない。なのに、「故人の生前の意志」に従ったとされている。月報にフランス人からの寄稿こそあるが、これは翻訳が成される前のものだ、解説に目を通せたはずもない。
 必然、「墓石には、ただ一語、《否》(ノン)の文字だけが刻みつけられた」との記述は素通り状態だったと分かる。それはそうだろう。当時の日本でセリーヌの名を知る読者など、数えるほどにしかいなかったのだから。
 セリーヌの没後からわずか3年。今とは比較にならないほど海外情報を得るのが難しかった時代だ。諸々を考えれば、厳しい非難には当たるまい。


   2・1975年

 次に、人文書院から出版の「生田耕作全エッセイ集」(帯)、『るさんちまん』だ。同名の生田耕作発行の雑誌ではなく、批評のみを集めた単行本の方である。ここには無論、数編のセリーヌ論も収録されている。前述の解説文も、『敗残の巨人――L=F・セリーヌ 人と作品――』と改題され収められている。
 ただしこのセリーヌ論、基本的に再録ではあるのだが、密かに修正が加えられてもいる。部分引用にて、比べてみよう。

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