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8年前 ボストンで卒業式

8年前の今日 私はボストンで通っていた大学を卒業した。

アメリカのテレビドラマや映画で見たことがあるアカデミックドレスを身に纏った時

それはそれはテンションが上がった。

「え、何?このハットどうやってつけるの?」

「え、何?全然似合わんくない?」

と戸惑いつつ、自然と顔は嬉しさにニヤついていたと思う。


ボストンに留学するまで、私はほとんど英語が話せなかった。

「留学」という目標があるにも関わらず、全く話せないのはヤバイなーと思い

英会話レッスンに通った。それでも、ネイティブの先生の発音の良さに

「open your textbook」すら聞き取れず、皆がテキストブックを開いたのを見て、やっと開くほどだった。

それにも関わらず渡米する際「語学学校だけでなく、その後は大学に行く」

と、半ば無謀にも思える目標をたてた。

大学に入る際には「留年もせず、単位も落とすことなく、ストレートで卒業する」と決めた。

どちらの目標も私は叶えた。人生で初めて、自分で自分が誇らしかった。

大学の授業は、毎日とても大変で、膨大な課題が日々山に積まれていく。

一番大変だったのは読書感想文。

一冊の本を読み切り、その感想を5ページ以上にまとめて提出しなくてはいけない。

分からない単語が多すぎて、いちいち辞書でひいていたので、読んでも読んでも終わらなかった。

先生たちは気を遣ってくれ「提出が遅れてもいいから」と言ってくれたけど

意地でも皆と同じ期限で提出したかった。

その為、平日はどんなに友達が誘ってくれても遊びには出かけなかった。

その分、週末はめちゃくちゃ全力で遊んだ。


私は幼児教育を専攻していたので、2年目からは午前中に託児所などのインターンが始まる。

前半は2、3才の子達の担当をした。

毎週必ず自分で考えたカリキュラムを子供達に教えなくてはいけなかった。

折り紙で作ったカエルを飛ばして遊んだり、日本語の歌を聞かせたり。

意外にもとても興味を示してくれて、日本の歌で子供達が自然と踊り出した時は

可愛くて、物凄く嬉しかった。

後半は少し大きな年齢の子達で、4、5才の子達を担当した。

口が達者な子達も多いし、「違い」を認識する年齢でもあったので

「どうして髪の毛が真っ黒なの?」や、食べ物についてのカリキュラムを行った時は

「どうしてそれを食べるの?」と素直な質問も飛んできて可愛かった。

最終日には、はらぺこあおむしの日本語の絵本を読んだ。

馴染みのある絵やストーリーだけれど、初めて日本語で読まれるのに

子供達のリアクションがとても可愛くて、目がキラキラとする姿が今でも印象に残っている。


ある日、その時に受け持っていた子の一人(男の子)が泣いていたので

「どうしたの?」と聞くとブワァ〜っと説明をしてくれたのだけれど

なかなか英語が聞き取れず、何度か聞き返すと

「もういいよ、英語話せないんだったら僕に話しかけないで」と言われて物凄く傷ついた。

学校に戻って先生の前で大泣きした。悔しいなのか、傷ついたのか、どういった感情かはわからない。

後にも先に先生の前で泣いたのは、この一回きりだった。

その後からのインターンは、とにかく気が重かった。

でも、その後のある日 その男の子のお母さんが 朝に送りに来た時に

「これ、あの子が先生にあげたいって」と饅頭を手渡された。

「この週末に、あの子が初めてアジアマーケットに行きたいって言ったの。

不思議ね〜と思ってたら、”これ、先生の国で食べてる食べ物だ!”とか

”先生はこの食べ物好きなんだって!”って教えてくれたのよ」と。

「その後、”きっと先生は国に帰れなくて寂しいだろうから”って、日本のお菓子を買って行こうって、コレを貴方の為に選んだの。

このお菓子が好きかどうかは分からないけれど、よかったら食べて?」って。

もう、嬉しくて嬉しく、今思い出しても涙が出てしまうほど、嬉しかった。

子供の心はとても純粋すぎるほど純粋で、毎日とても刺激的だった。


到底語り尽くせない私の大学生活は、何にも変えられない私の宝物です。

今、世界中がコロナの影響で崩壊状態です。

ボストンに住む友達やお世話になったホストマザー、そして大学時代の先生と連絡を取り合い

皆が無事に過ごしている事を知り、ホッと一安心ですが

この事態が収束したら、またボストンにも行きたい。


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