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ルールで叱って

私の家族は誰かを注意する時「自分が今不愉快だったか」どうかで注意するタイプである。
訂正。
注意するというか、怒るタイプである。

遅ればせながらこれがあんまりよくないんじゃないのということに1週間ぐらい前に気がついた。
そしてnoteのタイトルメモ帳に書き込んであったのを見つけてこの記事を書いていえる。

先述のように、私の家族は自分以外の家族のメンバーについて、ルールではなく自分の感情を基準にして注意する。

ルールで叱るというのはここでは「Aという行動をした人を見たら、必ず注意する」というように叱るべき行動に注目して注意をする場合のことだ。
例えば、道端でパンツを脱いでウロウロしている人を見かけたらみんな110番に通報して警察に取り締まってもらうと思うのだがこれは「法律というルールで人を注意する」ということになる。
あとは、子どものしつけのためにごはんをくちゃくちゃ音を立てて食べていたら決まって「ご飯がこぼれるしお行儀が悪いからからお口を閉じて食べようね」と注意するとかそういうやつだ。

対して感情で叱るというのは相手の行動を見て、その時の自分が「どう思ったか」で相手に怒りをぶつける注意の仕方である。
この方法だと、相手が同じ行動をとったとしてもその時の受け手側の気分によって「叱る(怒る)かどうか」の基準が変わってしまう。
さっきの例でいうなら、外にパンツを脱いでウロウロしている人がいても日によってある日は「おお、今日も脱いでるな、はっはっは」と受け流す日もあれば「なんだあいつは!懲らしめてやる!!」と通報する日もあって対応がまばらだということだ。
子どもが大人になった時恥をかかないよう、食事でくちゃくちゃ音を立てるのを直したいのにある日は何も言わずに見ているだけなのにまたある日は「何だその下品な食べ方は!すぐにやめろ!!」と怒鳴ったりするといった対応の仕方をしているということでもある。

私はもう大人なので自分で「この行動はよくなかったな」とか「自分のここを直した方がいいかな」とかある程度自覚的に考えることができるが、善悪の分別がつかない未成年の頃にこれをやられてしまうと困る。
同じ行動を取ってもその時によって指導する人間の態度が全く違うということになるから、常に目上の人の顔色をうかがって怯えて過ごさなくてはならない。
パンツを脱いでウロウロしている人もその日によって警察に連れて行かれたり放って置かれたりする日があるなら更生の道のりは遠いものになってしまうし、口を開けながら食べ物を噛む子どもは立派なクチャラーになってしまうだろう。

誰に向けて書いているわけでもない私の考え事だけど、子どもの頃の私にもっと「ルールで叱ってくれる人」がいたらよかったのになと思わないことはない。
その場の空気とか、自分のその時の気持ちだけであれやこれやと言われてもその時によっていい悪いが変わってしまうし時には怒鳴られたりもするから、主体的に動くよりも誰かの言うことを聞いて動いた方が楽だと思ってそうしてしまう。
そのツケがまわって大人になってから病気になっても、自分のせいで完結してしまうので始末が悪い。
実際自分で考えることを放棄して言葉の暴力に立ち向かわなかった自分が悪いのかもしれないけど、本当にそれでいいのかなという思いも捨てられなくて申し訳ない。

感情をゼロにして誰かと向き合うことはできないかもしれないしいちいち人の行動に口を出す義理はないので絶対とは言えないけど、誰かを育てる立場になった人がどうか感情ではなく理屈でルールを作ってくれるようになったらなと思う。
冷静になれない時もあるだろうけど、私は誰かに注意したいことがある時はできる限りルールで叱れる人になりたい。




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